【編集方針】

 
「本が焼かれたら、灰を集めて内容を読みとらねばならない」(ジョージ・スタイナー「人間をまもる読書」)
 
「重要なのは、価値への反応と、価値を創造する能力と、価値を擁護する情熱とである。冷笑的傍観主義はよくて時間の浪費であり、悪ければ、個人と文明の双方に対して命取りともなりかねない危険な病気である」(ノーマン・カズンズ『ある編集者のオデッセイ』早川書房)
 

2014年4月13日日曜日

【読書の前に】 『佐藤優の沖縄評論』

▼先月(2014年3月)から売り出されている『佐藤優の沖縄評論』(光文社知恵の森文庫)は、佐藤優がこれまで上梓してきた文庫本のなかで、デビュー作『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮文庫)と並ぶ最も重要な一冊だ。沖縄に興味をもっている人は必読です。



▼佐藤は2008年1月から、琉球新報で毎週土曜日、「佐藤優のウチナー評論」と題するコラムを連載している。本書にはそのスタートから2010年3月6日までが収録されている(単行本は琉球新報社から2011年9月刊行)。全国に流通しない」という県紙の限界を越えるために、文庫というメディアは力を発揮するだろう。


▼沖縄・久米島出身の母と、東京出身の父との間に生まれた佐藤優は、「沖縄人と日本人の複合アイデンティティを持つ」(文庫版まえがき)と、自らの拠って立つ足場について説明している。そして今、佐藤の重心は大きく「沖縄人」に傾いている。

しかし、本土のマスメディアにしか接していない圧倒的大多数のニッポン人は、なぜ佐藤優が「沖縄人」としての己に重心を傾けざるを得なくなっているのかに、どうしても理会(りかい)できない。なぜか?

いま、本土のニッポン人による沖縄差別は、「もう一歩悪化すれば、とりかえしがつかない」ところまで悪化している。にもかかわらず、この沖縄差別の現実は、本土のマスメディアからは、ニッポン人に対して、ほとんど伝わらないからだ。

▼なにが起こっているのか。

「マスメディアとどうつきあうか」を考える時、参考になる本はたくさんあるが、そのなかの一冊に『マス・コミュニケーション理論――メディア・文化・社会』という上下本がある。値段は高いが良書。(スタンリー・J・バラン、デニス・K・デイビス、新曜社)

その一節を引用しよう。

〈たとえば、現状に強く疑問を提起する社会運動家たちについて書かれたニュース報道で、あなたが一番最近読んだものを考えてみてほしい。その社会運動はどのように描かれていただろうか。運動の参加者やリーダーは、どのように描写されていただろうか。 
なぜ、天安門広場で中国共産党政府に抗議した大学生たちは「民主主義のヒーロー」で、2000年および2001年にシアトルやワシントンやジェノバでWTOまたはIMFに抗議した人々は、「無政府主義者」であり「急進派」であり「過激派」であるのか。
社会運動についてどのように語られるかは、現状の問題点を暗示している。
(中略)
これまでの研究は、こうした報道ではたいていいつも社会運動が非難され、エリートが擁護されていることを示している。〉(下巻326頁~327頁)

▼この「呼び名」をめぐる問いかけは普遍的だ。現在ただいま、ニッポンの沖縄で、こうした構造的差別と暴力が、現在進行形で起こっているのだ。『佐藤優の沖縄評論』を読めば、差別のしくみがよくわかる。そのうえで全国紙と琉球新報や沖縄タイムスとを読み比べれば、差別がどれほど深刻かがよくわかる。

▼佐藤の並外れた筆力は、本書においては、沖縄への愛と母への愛によって支えられている。随所に繰り出される実践的な提言には、沖縄への愛、母への愛とともに「ラスプーチン」の切れ味が同居している。

▼本書には「このままではマズイ」という危機感が隅々までみなぎっている。その源は、佐藤自身の外交官としての、そしてインテリジェンス・オフィサーとしての実体験だ。

〈沖縄独立論を「居酒屋独立論」と揶揄する輩は二重の意味で間違えている。
第一に、歴史的に民族独立運動は、パブ、ビアホール、コーヒーショップ、喫茶店などの誰でも出入りができ、自由な議論ができる「居酒屋型」の公共圏から生まれることだ。
第二は、「居酒屋独立論」を揶揄する論者は、沖縄の圧倒的大多数の普通の人々は独立など望んでいないということを論拠とする。この論拠は民族独立運動に対する知識と感覚(センス)の欠如から生じる。
民族独立は、「普通の人々」から生じるのではなく、民族もしくは地域のエリートから生じるのである。県知事が大統領に、県議会議長が国会議長に、県議会議員が国会議員に、福祉保健部長が厚生大臣に、観光商工部長が観光商工大臣になりたいと本気で思えば、独立は実現するのである。「居酒屋独立論」からほんものの独立までに三年もあれば十分であるということを、ソ連の崩壊、チェコスロバキア連邦共和国解体で筆者は見た。そして、その初期の兆候が沖縄で現れていると筆者は認識している。〉(62頁~63頁、2008年5月17日付)

▼上記コラムが書かれてから、6年が経った。去年(2013年)の12月以降、事態はさらに悪化の一途をたどっている。それにつれて佐藤の筆鋒もいよいよ鋭くなっているが、その期間のコラムは残念ながらまだ書籍になっていない。

その期間のコラムのなかでぼくが最も心打たれたのは、2013年12月14日付のコラムだ。琉球新報を購読している図書館などで読めるだろう。

同紙12月24日付の「声」の欄に、そのコラムを読んだ77歳男性(那覇市在住)の投稿が載っていた。

〈12月14日付の「佐藤優のウチナー評論」に「腐れヤマトの政治家」という字面を見て、度肝を抜かれた。と同時に、ジーンとくるような共感を覚えて、胸が熱くなるのを禁じ得なかった。
普天間基地の辺野古への移設を強行しようとしている政府・与党の強権発動の策動に対する、佐藤氏の憤怒は尋常ではない。亡き母親(久米島出身)に、今、政府・与党が沖縄に襲いかかっている状況を、あの沖縄戦の最中に、日本軍が沖縄の住民に対してやった悪逆無道と重ね、「お願いです。あの世にある全ての力を沖縄に送って下さい。腐れヤマトの政治家に呪いをかけてください」とまで記述している。
私自身、ヤマト官僚や政治家らの、沖縄に対する理不尽な言動や振る舞いに対し、時には「クサリヤマトゥー」ということを口にすることがある。だが、家内からは「言い過ぎでは」との雰囲気があった。
それ故、新聞社のレギュラー評論の欄に、堂々と「腐れヤマトの暗躍断とう」という論説は、私のハート(魂)が揺さぶられるような衝撃を覚えた。そして「クサリヤマトゥー」と言っているのは、私だけではないことを確認できたのは、大いなる収穫を得た思いである。
これからも、ヤマト側の非道や差別に対して、厳しく対抗していきたい気持ちに拍車を掛けられた。それにしても、佐藤優氏はすごい。〉

▼「佐藤優のウチナー評論」が沖縄人の心に届いていることがよくわかる投稿だ。

今年、ニッポンの進路には、沖縄県知事選挙をはじめ、いくつもの難局が待っている。「国家」を相対化する力に満ちている本書を読むと、「文化」のもつ力を知ることができる。今、読むべき本だ。(680円+税)