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2015年10月12日月曜日

文系廃止の「ご説明」


【メディア草紙】1984 2015年10月12日(月)

■文系廃止の「ご説明」■


▼毎日新聞の9月27日付に、〈文系廃止通知 ミスでした/真の対象 教員養成系のみ/国立大巡り文科省 釈明に奔走 撤回はせず〉という記事が載っていた。

〈国立大学の人文社会科学系学部の改組や廃止を求めた通知が波紋を呼び、文部科学省が「火消し」に躍起になっている。6月8日付の文科相名の通知に学術界やマスコミから「文系軽視だ」と批判が上がったため、役所の担当者が「誤解です」とあちらこちらに説明に奔走している。だが通知は英訳され海外にまで広がっており、通知の出し直しを求める声も上がっている。【三木陽介】〉

▼どんな通知だったのか、再読しておこう。


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〈通知「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」(今年6月8日、抜粋)

「ミッションの再定義」で明らかにされた各大学の強み・特色・社会的役割を踏まえた速やかな組織改革に努めることとする。

特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。〉
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▼どう読んでも、人文科学、社会科学の学部、大学院が「廃止」の対象になっている。また、この通知を書いた人の脳の中では、人文・社会科学は「社会的要請が低い」という前提に立っていることがモロ出しになっている。本文記事を読んでみよう。


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〈「人文社会科学系の廃止を心配していたが、説明を聞いて、そうではないと分かってほっとしている」。今月18日、「科学者の国会」と称される「日本学術会議」の大西隆会長(豊橋技術科学大学学長)は安堵(あんど)の表情を浮かべた。学術会議は7月に「人文・社会科学の軽視は大学教育全体を底の浅いものにしかねない」と声明を出していた。

この日開かれた学術会議の幹事会で、文科省の担当局トップ、常盤豊・高等教育局長が30分間にわたって通知の「真意」を説明した。その趣旨はこうだ。

「大学は、将来の予想が困難な時代を生きる力を育成しなければならない。そのためには今の組織のままでいいのか。子どもは減少しており、特に教員養成系は教員免許取得を卒業条件としない一部の課程を廃止せざるをえない。人文社会科学系は、専門分野が過度に細分化されて、たこつぼ化している。養成する人材像が不明確で再編成が必要だ」

局長からの説明を受けた大西会長は報道陣に「改革の必要性はその通り」と話し、理解を示しつつもこう付け加えた。「通知を何度読み返してもそうは理解できない」〉
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▼ラストの一文がまるで落語みたいになっているが、この大西氏にあっては、たかだか30分の説明で「ほっとしている」などと呑気なことを言い出す場合ではないことを覚(さと)っていただきたいところだ。

▼教員養成系の一部を廃止するってのは、まだわかる。教員養成を目的としているのに、教員免許を取得しなくても卒業できる場合があるからだ。

しかし文科省の官僚たちは、教員養成系に使っていた「廃止」という表現を、一気に拡大したわけだ。


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〈通知の経緯は、文科省が大学側と協議しながら2012年度から進めてきた「ミッションの再定義」と呼ぶ作業にさかのぼる。各大学・学部の強みや役割を整理する狙いだった。そして文科省が昨年7月にまとめた文書は、教員養成大学・学部の一部の課程について「廃止を推進」と明記した。人文社会科学系には「組織のあり方の見直しを積極的に推進」としていて、「廃止」の文字はなかった。

今年6月に大学向けに出した通知は、人文社会科学系を「廃止」の対象に含めてしまい、大きな反発を招いた。文科省幹部は「通知を作った役人の文章力が足りなかった」とミスを認め、自身の名で出した下村博文文科相は今月11日の記者会見で「廃止は人文社会科学系が対象でない。誤解を与える文章だったが、(通知の)一字一句まで見ていない」と釈明した。

日本学術会議の大西会長は「通知を取り換えた方がいい」と話すが、文科省は撤回して再通知する予定はないという。ある文科省幹部は「組織を『見直す』場合も、手続き上はいったん『廃止』してから『新設』する。通知は間違いと言いきれない」と強弁する。〉
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▼「役人の文章力」が足りない、などということはありえない。役人の存在証明は「公文書を作成すること」だ。また、「通知を作った役人の文章力が足りなかった」ことではなく、そんな文章力の低い通知に「決裁を出した上司の文章力が足りなかった」ことがミスのはずだ。しかし、上司のチェックミスもありえない。

そして、この通知は撤回されない。つまり、彼らの目的は、いま社会的に危惧されているとおり、「国立大学における人文科学、社会科学の学部、大学院の廃止」なのである。だから通知を撤回しないのだ。それ以外に、論理的な理由が見当たらない。

教員養成系の廃止に乗じて「やっちまえ」という魂胆だ。この通知は「ミス」などではさらさらなく、たとえば、「等」を入れれば文脈そのもの、法律そのものの意味が変わることで有名な「霞ヶ関文学」の劣化版だと考えたほうが理に適(かな)う。一片の知恵も、工夫のかけらもない、剥(む)き出しの本音がこの通知には記されている。その意味で、「通知を作った役人の文章力が足りなかった」(文科省幹部)わけだ。

毎日の記事は、文科官僚の「強弁」を記録している。この強弁のとおり、文科官僚は、通知を撤回せず、公文書原理主義に則って、ありとあらゆる手を使い、人文科学、社会科学の学部廃止を進めるはずだ。

30分の「ご説明」は猿芝居だ。常盤豊高等教育局長は、日本学術会議の大西隆会長のことを、「ものわかりのいい馬鹿だな」と鼻先で嗤(わら)っているだろう。

▼この人文科学、社会科学系を廃止する動きについて、朝日新聞などに面白い記事が載っていた。


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〈経団連、安易な文系見直し反対 即戦力だけ期待を否定
2015年9月10日05時13分 朝日新聞デジタル

文部科学省が国立大学に人文社会科学系学部の組織見直しを求める通知を出したことについて、経団連は9日、安易な見直しに反対する声明を出した。通知の背景に「即戦力を求める産業界の意向がある」との見方が広がっていることを懸念し、「産業界の求める人材像はその対極にある」と文系の必要性を訴えた。

経団連は声明のなかで「大学・大学院では、留学など様々な体験活動を通じ、文化や社会の多様性を理解することが重要」と指摘。その上で、文系と理系にまたがる「分野横断型の発想」で、様々な課題を解決できる人材が求められていると主張した。

また、国立大学の改革は国主導ではなく「学長の強力なリーダーシップ」で進めるべきだとも指摘し、政府は大学の主体的な取り組みを「最大限尊重」するよう注文した。

経団連が声明を出した背景には、文科省の通知が「文系つぶし」と受け止められ、それが「経団連の意向」との批判が広がっていることがある。就職活動中の学生らに誤解を与えかねないとの懸念があった。榊原定征会長は9日、記者団に「『経済界は文系はいらない、即戦力が欲しい』という報道もあったが、そうじゃない。即戦力(だけ)を期待しているのではないということを改めて発信したかった」と説明した。〉
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▼ぼくが感じる二つの瞞(まやか)しを指摘しておきたい。この記事を読むと、なんだか「経団連はまともだナ」と感じる人がいるかもしれない。しかし、経団連の声明全文を虚心坦懐(きょしんたんかい)に読めば誰でも感じることだが、

https://www.keidanren.or.jp/policy/2015/076.html

そもそも金儲けを最大の目的とする財界が、これほど偉そうな、威張りくさった態度で高等教育、義務教育に口を挟み続ける現状そのものが異常なのだ。

経団連は、現代の金儲けに欠くことができない項目として「理系・文系を問わず、基礎的な体力、公徳心に加え、幅広い教養、課題発見・解決力、外国語によるコミュニケーション能力、自らの考えや意見を論理的に発信する力」を挙げている。しかもこれらの膨大な能力の数々を、なんと「初等・中等教育段階でしっかり身につけ」ろと要求しているのだ。ぼくはこの文面を目にしただけで、あらためて息が詰まりそうになった。財界が教育界に対して、知力だけでなく、体力や、心のありようまで規制しているわけだ。

▼二つめは、一つめの裏返しだが、「今回の通知は即戦力を有する人材を求める産業界の意向を受けたものであるとの見方があるが、産業界の求める人材像は、その対極にある」という表現の自己矛盾である。金儲けのためにはムダを排さなければならない。財界が自らの良心に忠実であれば、正しく「即戦力しか必要ない」と言うべきなのだ。

経団連の声明は不誠実だ。「息をするように嘘をつく」典型例である。文科省の常盤豊・高等教育局長以下が取り組んでいる「ご説明」と同じく、経団連声明も誤魔化しの「煙幕」に過ぎない。

▼この70年間、どれほど経済界の意向が学校教育にねじ込まれてきたか、図書館に行って少し歴史をひもとけばわかる。ちなみに文科省の諮問機関である「中央教育審議会」の現会長(第8期)は北山禎介氏(三井住友銀行取締役会長)、第5期から第7期まで三村明夫氏(元経団連副会長、新日鐵住金株式会社相談役名誉会長、日本商工会議所会頭、東京商工会議所会頭)が務めた(第7期は途中から安西祐一郎・独立行政法人日本学術振興会理事長)。

▼また、常々からの素朴な疑問なのだが、ニッポンの教育政策を決定している文科省の官僚たちのなかで、教員免許を取得している人の割合は何%なのだろう。教員免許も持たず、学校教育の現場にも立たず、今どういう教育が必要なのかわかるはずがないし、そのうえ財界=資本主義の影響を積極的に受けながら、ろくにエビデンス(根拠)にも基づかず、印象論や、成功体験や、机上の空論などのあれこれが教育政策に紛れ込んでいるとしたら、それは「教育」というよりも「おまじない」に近い。

尤(もっと)も、大東亜戦争以来の「科学的精神」ならぬデタラメな「日本的精神」を注入する伝統が今も息づいているとすれば、彼らが「江戸しぐさ」を「道徳」の教材に選んだ低級な知的能力にもうなずける。


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竹山綴労


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