【編集方針】

 
「本が焼かれたら、灰を集めて内容を読みとらねばならない」(ジョージ・スタイナー「人間をまもる読書」)
 
「重要なのは、価値への反応と、価値を創造する能力と、価値を擁護する情熱とである。冷笑的傍観主義はよくて時間の浪費であり、悪ければ、個人と文明の双方に対して命取りともなりかねない危険な病気である」(ノーマン・カズンズ『ある編集者のオデッセイ』早川書房)
 

2013年9月27日金曜日

【オフノート】東郷和彦 総目次

【PUBLICITY 1951】2013年9月27日(金)


▼東郷和彦さんのロングインタビューを終えて、思ったことを
幾つかメモしておきたい。

まず、本誌で扱った最長のインタビューになった。なにしろ通
算で45回も発信した。註が多いけど。

長い分量をかけて発信し、背景も含めて共有すべきだと感じさ
せる東郷さんの話だった。おそらく「右」を自称する/他称さ
れる人にも、「左」を自称する/他称される人にも、益する内
容が含まれていると思う。

現在の日本の知的情況の特徴は、東郷さんの小論やインタビュ
ーが、岩波の「世界」と「週刊金曜日」と「文藝春秋」と「月
刊日本」に、同時期に掲載されることに象徴されている。

尤(もっと)も、もっとわかりやすい例は、もはや数えきれな
い数の雑誌や新聞に連載を繰り広げる「佐藤優」の存在である。

彼らのように旧来の「左右」の枠を超えて論陣を張っている/
張らざるを得ない人々の思想(=運命)と論点(=戦略)と語
り口(=戦術)を吟味すれば、「世界の中の日本」が可視化さ
れ、「国家」が相対化され、各々の守るべきものが見えてくる
と思う。


【取材のきっかけ】

▼東郷さんにインタビューするきっかけは「フォーラム神保町」
(現在は終了)だった。同フォーラムが主催するいくつもの勉
強会のうち、東郷さんの連続勉強会に参加したのだが、まず何
枚かのプリントが配られた。それはのちに講談社から出版され
ることになる『歴史と外交』のゲラだった。

勉強会は、プリントの内容について東郷さんがまず話し、その
のち参加者から質疑応答を受け、自由に議論した。議論には「
チャタムハウスルール」が適用された。(議論で得た情報は自
由に使っていいが、情報源は一切明かしてはならない、という
ルール)

そしてこの勉強会の肝(きも)は、議論によって東郷さんのプ
リントに検討すべき箇所が見つかれば、すべて訂正して新著に
反映する、という東郷さんの基本姿勢だった。

▼これから出版する本の全容を、「意欲はあるが見ず知らずの
複数の人間」に配り、自由に議論を促し、自らの間違いが見つ
かれば積極的に著作に反映する……この段取りを、こうやって
書いてみれば、とても合理的で価値的だが、実際におこなうの
はなかなか難しいことだと思う。

しかも当人は、かつて外務省の文字通り中枢におり、北方領土
交渉で正真正銘の「国益」のために死力を尽くし、複数の局長
職やオランダ大使を歴任した人である。ぼくはなによりもまず、
あれほど理不尽な仕打ちを受けて外務省を追われ、数年間の「
漂流」を経てもなお保たれている、東郷さんの「オープンな知
的態度」に感銘を受けたのだった。

そして実際に、東郷さんはこの連続勉強会を通して、章立ても
含め、幾つかの表現、内容を変更し、『歴史と外交』を世に問
い、ロングセラーとなった。

こういう誠実な姿勢を有するトップエリートの思索の痕跡、思
想の背景、また、今まさに生起している時事問題へのコメント
を、堅苦しくない形式で社会に共有できる機会は多くはない、
と感じたのも、ロングインタビューをお願いした理由の一つだ。


【取材で得た僥倖】

▼インタビューの準備をし、まとめる経緯では、東郷さんの学
生時代の恩師である哲学者の井上忠さんと東郷さんの再会をお
手伝いすることができた(オフノート第15回から第18回に
詳しい)。

思いがけない「師弟の再会」は、同席したぼくにとってもアリ
ストテレスをめぐる得難い学びの場となった。

(まったくの蛇足だが、井上忠さんは現役教員時代、通称「イ
ノチュウ」と呼ばれていたのだが、これはもしかして井上哲次
郎が「イノテツ」と呼ばれていたことと関係あるのだろうか?)

▼ほかにも権藤成卿が唱えた「社稷」の思想、「東京裁判」の
速記録など、それまで縁の薄かった知的遺産をじっくり読むい
い機会になった。これも有難かった。

とくに「東郷氏(=東郷茂徳)はナチス時代のカサンドラであ
つたのであります」というブレークニー弁護人の一言は、あま
り知られておらず、発信できてよかった。この一言を『極東国
際軍事裁判速記録』から見つけた時の感懐は忘れられない。

▼おそらく、これほど長いインタビューを、今後、本誌で連載
することはないだろう。もう徹夜でまとめる体力もないし、割
ける時間もない。出来る事を、出来る時に、思いつくかぎりや
りきっておくものだ。下記の総目次を並べながら、そう思った。

▼全体のタイトルである「1945から/1945へ」は、「
1945年から」人生が始まった東郷さんの外交戦の跡を辿(
たど)る作業が、やがて祖父である東郷茂徳さんの「1945
年へ」至る道を確かめる作業になったので、こう名付けた。

「1945から」始まった歴史は、「1945へ」と反復する
のかもしれないし、しないかもしれない。

ぼくは、東郷さんの「歴史とは『人間の努力』である」という
定義が好きだ。誰にでもわかる定義で、嘘がないから。

▼第3章のタイトルは堀田善衛の本から、第4章のタイトルは
中島みゆきの歌から拝借した。歌詞を本編で引用し忘れたので、
ここで引用しておく。今から思えば、この歌詞と通ずるなにか
を「フォーラム神保町」の連続勉強会で感じたから、この連載
を書こうという気になったのかも知れない。


――――――――――――――――――――――――――――
世界の場所を教える地図は
誰でも 自分が真ん中だと言い張る

私のくにをどこかに乗せて 地球は
くすくす笑いながら 回ってゆく

くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
むずかしくは知らない ただEAST ASIA

「EAST ASIA」
作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき
――――――――――――――――――――――――――――


【オフノート・東郷和彦「1945から/1945へ」総目次】

■第1章 “透明なビニール”の中で
 01から08まで(主に外務省時代の物語)

■第2章 職業としての外交
 09/職業としての外交
 10/日本の地盤沈下、ゆでガエル症候群
 11/外交の真髄
 12/情報戦における敗北の事例
 13/右か、左か。「嫌米」のバックラッシュ
 14/「独善」を避けよ!
 15/「弓」を引く力、その源泉
 16/恩師との対話、12世紀ルネサンス考
 17/アリストテレス革命
 18/第2章終わり

■第3章 美(うるわ)しきもの見し人は
 19/美しきもの見し人は
 20/「最後の一戦に敗けた者が敗者」
 21/わだつみの底より
 22/年ふることのなきぞかなしき(上)
 23/年ふることのなきぞかなしき(下)
 24-A/「佐藤電報」を読む
 24-B/「ために社稷は救わるべくもあらず」
 24-C/「社稷」考~衣食住のネットワーク
 25/ナチス時代のカッサンドラ
 26/家庭の雰囲気について
 27-A/「自然」と「伝統」、そして「天皇」
 27-B/感性を失っていく歴史

■第4章 黒い瞳の国~East Asia
 28/戦争と道義心の不足
 29/「統帥権」雑感
 30/個人主義と全体主義の間で
 31/歴史とは人間の努力
 32/三つの領土問題・竹島
 33/三つの領土問題・尖閣 その1
 34/三つの領土問題・尖閣 その2
 35/台形史観のおさらい1
 36/台形史観のおさらい2
 37/ある外交官の一生
 38/三つの領土問題・北方領土1
 39/三つの領土問題・北方領土2
 40/新しい領土問題・沖縄と福島
 41/大学教育の経験
 42/歴史認識とアメリカ


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2013年9月24日火曜日

【オフノート】東郷和彦 42止/歴史認識とアメリカ

【PUBLICITY 1950】2013年9月24日(火)


【オフノート】東郷和彦42
〈歴史認識とアメリカ〉
――――――――――――――――――――――――――――
festina lente.

ゆっくり急げ。
――――――――――――――――――――――――――――


【臥薪嘗胆の時代】

【註】
▼『戦後日本が失ったもの』のなかに、目を疑うようなエピソ
ードが登場する。


――――――――――――――――――――――――――――
日本に帰ってから、二〇〇八年、とあるオピニオン・リーダー
たちの出席した勉強会でのことである。話が戦後の歴史教育の
不在に及んだ時、NGOの活動家の方がこんな話を披露してく
れた。

時はまだ小泉旋風で、衆議院で自民党が三分の二の多数を擁す
る時代である。

「この前、若手のリーダーたちに歴史の現場を勉強してもらお
うと思って、硫黄島に小泉チルドレンの先生方を含めて見学ツ
アーをアレンジしたんです。見学に入る前に現地で若干の勉強
会を開いて、講師の先生が話を始めました。

どうも、聞いている方の反応がぴんときていないみたいなんで
すね。そうしたら、小泉チルドレンの方の一人が、質問された
んです。

『日本とアメリカは戦争したことあったんですか』」

一同騒然となったのは、言うまでもない。

191-192頁
――――――――――――――――――――――――――――


▼この事実を冒頭に置いて、最後のテーマ「歴史認識問題とア
メリカ」に入りたい。


東郷 新しい本(『歴史認識を問い直す』)では、日本発の新
しい哲学、日本がリードしうる新しい思想をめぐって、第7章
で書いています。

――これまでも一つの参照軸として、京都学派について言及さ
れていますね。


――――――――――――――――――――――――――――
世界の中における現下の日本について本当に考えるためには、
根と幹と枝を総合して考えねばならないと、最近私は考えるよ
うになった。根は、哲学と宗教と文明論である。幹は、国家目
標と公共である。枝は、そういう根と幹の上に展開されるべき
外交と対外政策である。

日本は近代化の過程の中で、太平洋戦争に入ろうとする時代、
一度だけ、哲学と国家論と外交を総合した思想をもった。いわ
ゆる京都学派と呼ばれる人たちの考えである。敗戦によってし
ばし、京都学派も、またそういう日本自身による普遍思想追求
の試みも姿を隠した。

日本は今、そういう総合的な思想を回復しなければならない。

「哲学・国家論・外交の総合を再び」
『環』51号「特集 内なるアメリカ」、藤原書店
――――――――――――――――――――――――――――


東郷 新しい、しかし今度は世界に通用する思想です。それは
人権に関するユニバーサル、グローバルな基本を取り入れたも
のでもある。

今の中国が抱えている巨大な問題は少数民族問題ですね。レイ
シャル・アロガンス(=人種的な傲慢)が問われている。日本
にもまた、かつて日本帝国の植民地主義で失敗した部分がある。
失敗の原因は、同じアジアの人々に対するレイシャル・アロガ
ンスでした。

日本の反省が真摯であればあるほど、中国に対してものを言わ
なければならないはずなんです。しかし、言わない。その原因
のひとつは、韓国に対しておこなった植民地主義に対する無反
省でしょう。だから、在特会の暴力的な言動についても、社会
全体としてはっきり発言できないような恐ろしい状況が生まれ
ていると思います。

私自身の言動については、著作を読んでいただければわかって
いただけると思いますが、韓国の方々に対してもアプローチで
きるし、中国の方々に対しても恥ずべきところなくアプローチ
できる立場と自認しています。

歴史認識について誠実に学べば、政治的責任に加え、必然的に、
道義的責任について考えさせられます。この道義的責任の視点
に基づいて、これまで日本から発せられた発言は少なすぎると
言わざるを得ない。

他国に対して「あれは、やりすぎだった」と言わない。言って
こそ、次の一歩を堂々と踏み出せる。言ってこそ、たとえばチ
ベットやウイグルに対して、「日本人だけが言えること」がで
てくる。

――道義的責任の有無が、その国の外交姿勢を深いところで規
定してくるんですね。

東郷 だからアメリカのリアリストたちから今、「日本のガラ
パゴス化した反中主義者たちが騒いでいるが、戦争について反
省もしていない日本が、なぜ中国のチベット問題についてもの
を言えるのか」と批判されているわけです。

歴史学者の家永三郎さんが、かつて「アウシュビッツ」と「ヒ
ロシマ」と「731」をジェノサイドとして論じておられまし
た。もっとも、規模や目的を考えると「731」は「民族の抹
殺」を目的にしたものではありませんから、同列に論じられな
いという批判もあるでしょう。しかし家永三郎さんは、左翼の
方ですが、信念をもった人だったからこそ、この三つを同列に
置いて論じることができた。私は彼の思想から学ぶべきところ
があると思います。

広島、長崎への原爆投下の問題は、現在のアメリカとの間では
解決しません。しかし、日本にとって最終的に解決すべき歴史
問題は、まさしくアメリカとの関係のなかにある。「東京裁判」
と「原爆投下」。この二つが日本の歴史認識問題の本丸である
と私は考えています。

【註】
▼『歴史と外交』には、歴史認識問題を解決するために必要な
「原則」について述べた次の一文がある。


――――――――――――――――――――――――――――
先の大戦にかかわる歴史認識の問題は、日本がいずれかの時点
で克服すべき課題である。しかし、そのためには、戦略と情報
が必要である。戦略とは、いちばん重要なのはなにかを識別、
選択し、他の重要なものとのあいだに優先順位をつけて、一つ
ひとつ時間差をつけて解決していくことである。また、情報と
は、相手の側がなにを考えているかを知悉することである。

253頁
――――――――――――――――――――――――――――


東郷 いまの日本は長い「臥薪嘗胆」の時代であるとも言えま
す。歴史認識におけるアメリカとの最終和解とは何なのか。私
はこの問題を忘れたことはありません。その解決のためには、
最低限の条件として、日本の展開する議論に、アジアの諸国が
共感をもっていただかなければならない。アジア諸国が「その
問題は、日本の言うとおりだ」となった時、アメリカの態度も
変わるでしょう。歴史認識問題は100年単位の戦いなのです。

これは『歴史と外交』でもある程度論じたのですが、発刊当初、
「アメリカに対する態度と中国、韓国に対する態度が違う」「
ダブルスタンダードじゃないか」という批判をいただきました。

しかし、日本がアジアで総スカンになっている現在のような状
況下で、アメリカに対してものを言ってもまったく迫力はない。
このポイントがわからなければ、アメリカとの間で歴史認識の
和解にたどり着けるはずがない、と私は考えています。

――ぼくは東郷さんの言論で面白いと思うのは、かたや「月刊
日本」、かたや岩波の「世界」や「週刊金曜日」に、東郷さん
の同じ趣旨の主張が載っている点です。これは東郷さんに限っ
た話ではなく、佐藤優さんなどその最たる例ですが、左右を弁
別する時代など、もはや昔の話です。東郷さんをはじめとする
何人かの言論はその証明になっていると思います。

東郷 書ける場所があるのはありがたいことです。京都の大学
で教え、静岡で県政のお手伝いをするなかで、「平成の三悪」
とでも言うべき「前例踏襲」「官僚主義」「既得権益」の強力
な壁にぶち当たることがあります。

日本が新しいビジョンをもって動き出すべき時、その創造的な
精神がこの三悪によって否定される。この悪弊を破らないとい
けないが、ものすごい勢いで押さえ込まれます。そういう事態
が至るところで起きている。

これからも、一歩ずつ進んでいくつもりです。

――長時間、ありがとうございました。


【編集後記】

▼2009年段階で、ぼくは「編集後記」として以下の文章を
書いていた。後半、箇条書きになっている部分があるが、文意
は通ると思うので、そのまま引用しておく。


――――――――――――――――――――――――――――
ぼくは東郷さんの話を聞きながら、ある時点で、彼の話のキー
ワードは「メモリーの息づいたロジック」だと考えた。そして
このキーワードを意識の片隅に置きながら、幾つかの質問をし
ていった。

しかし、ロジックが効用を発揮するためには、何らかの「枠組
み」が必要である。それを、国家と呼ぶ人もいる。社会と呼ぶ
人もいる。何と呼ぼうともメモリーは、メモリーに先立つ「世
の中」があって、初めて成り立つ。

しかし、たとえば「国家」という濾過装置を通すことによって
「世の中」が寸断された場合、メモリーもまた寸断され、なく
なる。そのとき「国益」も曖昧なものになり、「公」も曖昧な
ものになる。

この世の中そのものが――つまり、「メモリー」を紡ぎ出す土
台が、壊れてきているのであれば、その土台の上に「メモリー
の息づいたロジック」をつくることはできない。

▼必要なことは、「国益」の観点からとらえれば、

くにづくり=国境線を引き直す

もっといえば、【メモリーは変容する】。

この社会は、「新しいメモリー」を創り出す時を
迎えているのかも知れない。

国家が極大化し、社会が液状化している中で、
誰もが新しい「風景」を目の当たりにしている。

ぼくたちは今、わが山河は、たとえ空襲がなくとも焦土になる
のだ、という新たな現実――もしくは1945年へ至る歴史の
反復――に、直面している。
――――――――――――――――――――――――――――


▼この文章を書いた時点で、まさか2011年の3月11日に
東日本大震災が起こるなんて想像もしていなかったし、福島第
一原発がメルトダウンするなんて想像もしていなかった。文字
通り、空襲がなくても、ふるさとは焦土になった。ぼくは新し
い現実に直面した。

▼また、以下の文章を読んでいただきたい。


――――――――――――――――――――――――――――
安倍総理の歴史観には、小泉総理よりも明確な「日本の名誉を
守る」という視点があった。しかしながら、それが一方的で単
純な政策の形成としてあらわれれば、中国、韓国、ひいては米
国とのあいだで、不毛・無用・消耗でしかない歴史戦争を引き
起こす危険性があった。その結果は、おおむね予想がついた。
一九四五年に軍事的にすべてを失った経験の反復である。歴史
問題をめぐる新たな対中対米同時戦争によって、こんどはすべ
てを文化的に失う危険性があった。

だが、安倍内閣はその実際の政策において、そういう一方的な
自己正当化とはちがった政策をとりはじめた。就任早々の村山
談話の確認、「靖国神社に行くか行かないかを明言しない」と
いう政策、それらは、日本が戦後積み重ねてきた、反省と謝罪
の歴史をも肯定しつつ、過度の自己否定によって発生していた
漂流から脱却し、日本全体として向かっている中道への道が垣
間見えるように観ぜられたのである。

東郷和彦『歴史と外交』16頁
――――――――――――――――――――――――――――


▼この文章の載った東郷さんの『歴史と外交』が発刊されたの
は2008年12月だった。本連載の途中でもこの箇所を一度
引用している。

そして、2013年段階で、4年前のこの文章と似たような政
治の風景を目にしている事実に、ぼくは不思議な感覚を覚えて
いる。とくに「すべてを文化的に失う危険性があった」という
一言は、そのまま今の状況にあてはまっているのではないだろ
うか。

▼長いインタビューの中で「一九九一年の第一次湾岸戦争で日
本が陥った国際的孤立のトラウマ」(『歴史と外交』12頁)
について質問した際、東郷さんは戦後日本の歴史を顧みながら

「民族には寿命があるのかも知れません」

と言った。その一言が強く印象に残っている。

▼最後に、東郷さんの次の文章を引用して終わりたい。『歴史
と外交』の一文である。


――――――――――――――――――――――――――――
東郷茂徳は、鹿児島から車で約一時間ほどの距離にある日置郡
東市来町美山(現・日置市)という村の出身だった。

美山は、慶長三(一五九八)年、朝鮮戦役の最後に、半島から
撤退する豊臣秀吉軍に拉致された朝鮮の陶工たちが、居を構え
た場所である。この村で、朝鮮の陶工たちは、薩摩藩の独特の
保護と隔離の政策の下で、当時の世界の最先端技術による陶器
を製産、世に知られる薩摩焼となった。

茂徳の父寿勝はこの村の陶工のひとりであり、明治維新のとき、
旧制の朴を捨て、東郷姓を名乗った。茂徳は、明治十五(一八
八二)年、この村に生まれ、この村からやがて、東京帝国大学
で学び、外交官となった。

東京で育った私がこの村をはじめて訪れたのは、一九六八年の
春、大学を卒業し、外務省への入省を控えた春休みだった。鹿
児島市からバスに揺られて着いた美山は、緑のけぶる簡素な村
だった。

村の入り口に、「美山の子らよ、東郷先輩に続け」と書いた木
の柱が立っていた。そこから、茂徳の生家を訪ね、そこに住ん
でいた親戚の人たちと、しばし懇談してから、鹿児島に帰った
。おだやかな山並みに囲まれた静かな田園の風景と、「自分も
国のために、よい仕事をしたい」と思った記憶は、いまもなお
鮮明である。(中略)

最後に美山を訪れたのは、二〇〇一年、オランダに赴任する前
だった。オランダゆかりの場所が多い長崎を訪問したあと、鹿
児島を訪れた。マスコミは、イルクーツク交渉の失敗と外務省
のロシア政策をめぐる混乱を激しく批判している最中だった。

窯元の人たちを集めて席を設けてくれた沈寿官氏に、「こと志
と違い、日ロの大きな正常化は実現できなかったが、国のため
に、最善と信ずる仕事をしたと確信している」とお話しした。

茂徳から美山に連なる記憶、それは、四世紀をへだてて、自分
のなかに流れている朝鮮の血筋というものを、考えさせるもの
だった。

その問題が、自分にとって、どういう意味をもっているのかは、
まだ、私にはわからない。

109-110頁
――――――――――――――――――――――――――――


▼新しい「メモリー」は、そして「メモリーの息づいたロジッ
ク」は、誰でも創り始めることができる。

1945年生まれの東郷さんは、新しい扉の前に立っている。


(おわり)


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2013年9月23日月曜日

【オフノート】東郷和彦 41/大学教育の体験

【PUBLICITY 1949】2013年9月23日(月)


【オフノート】東郷和彦41
〈大学教育の体験〉


――――――――――――――――――――――――――――
tantumu scimus,quod memoria.

我々は、我々が記憶せるもののみを知る。
キケロ
――――――――――――――――――――――――――――


【最初の授業の驚き】

――歴史観を比べる重要性について、以前、日本と韓国の歴史
教科書について書かれましたが、日本とロシアをパラレルに描
く試みも始まっているそうですね。

東郷 五百旗頭先生と下斗米伸夫先生が中心になって進めてお
られます。興味深い取り組みです。

――東郷さんが京都産業大学で授業をもつようになって、予想
外の出来事などはありましたか。

東郷 私は担当しているのは「東アジア外交史」という授業で
す。アメリカのプリンストン大学で、ローズマン教授と「東ア
ジアの戦略思考」という授業を担当しました。

京産大では、プリンストン時代よりも歴史問題に重点を起き、
帝国主義の時代、冷戦時代、ポスト冷戦という時代の流れのな
かで、東アジアの各国がどのようなアイデンティティーとスト
ラテジー(=戦略)を持つに至ったか、という内容です。

2009年に初めてその授業をしたのですが、1回目の授業を
終えた時点で、「近現代史から遡(さかのぼ)って教えたほう
がいいんじゃないか」と思いました。そうすると時間切れで近
現代史の内容を取りはぐれることは絶対にありませんから。

――それってNHKの「さかのぼり日本史」に似ていますね。

東郷 そうなんです。授業を始めた当初はNHKの「さかのぼ
り日本史」の存在を知らなかったのですが、先を越されていた
(笑い)。結局2012年に初めて京産大でそういう授業をし
ました。今年2013年の4月から第2回目です。この授業を
通して大変貴重な経験をしました。

NHKの番組は、日本史をさかのぼる内容ですが、私の場合は
「さかのぼり東アジア史」ですね。五つの国の歴史を追う。と
にかく自分でやってみようと思ったんです。

――なにか直接のきっかけがあって、「さかのぼろう」と思っ
たのですか。

東郷 去年の「東アジア外交史」の最初の授業で、学生たちに
あるプリントを配ったんです。

【註】
▼ここで東郷さんは、ノートに何本かタテヨコの線を引き、学
生に配ったプリントの中身を再現してくれた。それは、タテ軸
に四つの時代区分、ヨコ軸に五つの国名が書かれた、合計20
の空欄があるプリントである。

四つの時代区分は、「1850年以前」「1850年から19
45年まで」「1945年から1989年の冷戦終結まで」、
そして「1989年以降」。

そして五つの国は「中国」「韓国」「日本」「ロシア」「アメ
リカ」である。


東郷 合計20の空欄に、なんでもいいから国際関係で重要だ
と思う出来事、事実、知っていることを書くように言いました。
第一回の授業時間の90分のうち40分ほど使って、そのプリ
ントに名前を書いて出してもらった。

ほんとうに驚きました。いちばんブランク(空白)が多かった
のは、ここなんですよ(そう言って東郷さんは「1989年以
降」の欄を指さした)。

――冷戦以降、ですか。

東郷 そうなんです。彼ら自身の育ってきた時代、つまり「現
代」のブランクが圧倒的に多かった。

――学生は日本人ですね。

東郷 ええ、250人の学生のうち、ほとんどが日本人です。
留学生が10人くらいだったかな。

とにかくショックでした。この1回目の授業の結果を受けて、
私は2回目の授業から、予定していた授業の順番を全部ひっく
り返したんです。授業は全部で15コマでしたから、すでに1
回使っているわけで、まず「1989年以降、今日まで」で4
コマ、「1945年から1989年の冷戦期」で4コマ、「1
850年から1945年の帝国主義」で4コマ、最後に「18
50年以前」で2コマ、この順番で授業しました。

――面白いですねえ。

東郷 たいへん面白かった。パワーポイントを使い、さらに歴
史的動画をYoutubeを使って導入しました。今年はさらに修正
を加えます。学生と一緒に勉強したことで、大変思い出に残り
ます。

また、ゼミを通じても強く感じたこともあります。

――何でしょう。

東郷 それは、いまの学生は、高校を卒業するまでに「自分の
意見」を人の前で言う訓練がほとんどなされていない、という
ことです。「他の人と違った自分の意見を言えることほど大事
なことはない」ということを、これまでの人生で一度も聞いた
ことがない学生がずいぶんいる、ということです。

――うーん、そうですか。

東郷 これは日本の教育の致命的な部分だと思います。しかし、
これほどひどいのか、と感じました。「たとえ他人と違ってい
ても、自分の意見を言ったり書いたりすることが、あなたがた
にとってクルーシャル(=決定的に重要)なんですよ」「意見
を言おう」「他の人と違う意見を言うことは、決して恥ずかし
いことじゃなくて、それこそがあなたがたに期待されているこ
となんですよ」と語り続けました。

裏を返せば、「みんなと同じことを言うことがいいことだ」と
いう、よくいわれているきわめて日本的な特徴だと思うのです
が、私は小学校時代に日本と違う場所で教育を受けてしまって
いるから、どうしても理解できない。

他人と違ったことを言うことが怖いという心理、それ自体を壊
さなくちゃいけない、という考えを、ゼミでも共有できるよう
に努力しましたが、その結果、「就活」などを通しても「積極
的に発言できた」と喜ぶ声をいくつか聞きました。「生き方を
考え直した」という声も聞いてうれしかった。

いっぽう、目覚めた人に、その意識に対応するジョブ・オポチ
ュニティー(=働く機会)があるかというと、簡単にはないで
すね。これも難しい問題です。月並みな言い方かもしれません
が、苦しみながら、自分でしか実現できないものを目指してが
んばっていくしかない。その手助けをできる限りしてあげたい
と思います。


【文化の価値】

東郷 いまの日本が成熟した段階に入っているのは間違いない。
ただし、私は成長率がゼロになっていいとは思いません。しか
し成長率が低くなってきた時の、新しい、文明的な生き方は絶
対に必要です。

冷戦時代、昭和時代は、経済大国へと一気に昇ってきましたね。
いま私は静岡県政のお手伝いをしていますが、静岡が掲げてい
る「富国有徳」という言葉は、これからの日本の目標にもなる
と思います。まだまだシェアされていませんが。

日本は国家としての目標がないまま25年間漂流しているよう
に見えます。「このままではダメだ」と思っている人が、いろ
いろなことを提言しています。私も「開かれた江戸」という考
えを発信してきました。

そうした意見が最終的に帰着するのは、私は「美」であり「文
化」だと思います。「ミネルヴァの梟」ではないが、日本はそ
の段階に来ている。ほんとうに世界に打って出ることのできる
「パワーソース」はどこにあるかと考えれば、経済力ではない
し、軍事力でもない。

文明論的に考えても、やはり「尖閣後の外交再定義」が決定的
に重要です。日本はもう一回、軍事力で戦うのか。私は違うと
思う。軍事力で失敗し、学んだものがあるはずです。それを、
中国に刺激されたからといって中国と同じレベルに堕ちるのか。

歴史を少し省みれば「そうではない」と気づくと思います。日
本の新しい平和主義の定義は、まさにこれからやらなくてはい
けない。その時に国内で内ゲバばかりやっていては話にならな
い。極端な左の平和ボケ――なにもしない――という姿勢もダ
メだし、中国と同じレベルで戦おうという右の平和ボケもダメ
だし、日本の平和主義はそのどちらに偏ってもならない。

そして、その新しい平和主義を持ちえたからといって、国際社
会では「so what?」(だから何?)なんですよ。それはミニマ
ムなんです。

――必要だが十分ではない、ということですか。

東郷 そう。その先に目指すべき国家としての目標があるはず
なんです。それは文化であり美だと思う。武器でもないし経済
でもない。日本が生き残るための基盤固めとして、新しい平和
主義が必要なのですが、日本が世界に対して見せる「国の姿」
はなにか、なにをもって日本が世界に対して発信できるのか。

少子化、高齢化に対応する社会づくりが不可欠である。それは
そのとおりです。しかしそれもまた、それだけならば、私に言
わせれば「so what?」なんです。「やっぱり日本はすごい」と
言わしめるのは文化であり美です。それ以外にないと肌で感じ
ています。

でも、文化とか美なんていうことを話題にすると「そんな余裕
はない」という反応が返ってくることが多い。もう少しだけ余
裕をもてないものだろうか、どうすればいいだろうか、と考え
ています。


【註】
▼『戦後日本が失ったもの』(角川書店)のなかに東郷さんの、
この文化への強い志向の原点が描かれている。

このインタビューをしていたのは六本木の喫茶店だった。文化
の価値をめぐる話になった時、東郷さんは喫茶店の窓の外をち
らっと眺め、「あれが美しいと思いますか? きれいな女の人
が映っていても、ちっとも美しいとは思えないでしょう?」と
、まったく無秩序に立ち並んだ雑多のビルのなか、はるか頭上
にそびえる、ファッションブランドの巨大な看板を指さした。


(つづく)


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2013年9月22日日曜日

【オフノート】東郷和彦 40/新しい領土問題――沖縄と福島

【PUBLICITY 1948】2013年9月22日(日)


【オフノート】東郷和彦40
〈新しい領土問題――沖縄と福島〉


――――――――――――――――――――――――――――
absurdum est ut alios regat,qui seipsum regere nescit.

自己を支配することを知らぬ者が
他人を支配するは不合理なり。
――――――――――――――――――――――――――――


【本土から遠ざかる沖縄の心】

――ぼくは沖縄と福島も、「かたちを変えた領土問題」ではな
いかと思います。東郷さんは、「沖縄問題は戦後日本の民主主
義の象徴だ」とおっしゃっていますね。


――――――――――――――――――――――――――――
しかし、ここで顕在化した沖縄の矛盾は、自民党政権時代より
解決できずに放置されてきたものであり、この矛盾を見て見ぬ
ふりして蓋を閉じたのは自民党政権と、それを支えてきた本土
の人間である。われわれ本土人はその責任から逃れることはで
きない。

「月刊日本」2012年8月号、19頁
「本土から遠ざかる沖縄の心」
――――――――――――――――――――――――――――


東郷 その内容が、この問題についてぼくがいえる唯一のこと
です。いわば、徹底的な「ジコチュー」(=自己中心主義)に
陥っている。「自分のところに持ち込まれるのはいやだ」とい
う感情であり、ヒポクラシー(=偽善)です。

かつて米軍基地は日本全土に展開し、本土は沖縄と違わなかっ
た。その後、本土の米軍基地は一気に減っていったが、沖縄の
基地は減らなかった。その結果、差別が生まれた。そしてその
状態のまま沖縄返還がおこなわれ、現在まで続いている。若泉
敬が自決された理由もそれです。

せっかく引き取った沖縄だが、その後、本土と比べて差が縮ま
らない。これは何を意味しているのか。悩み抜き、若泉さんは
『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を書いた。若泉さんの沖縄に
対する思いは、私の父親が感じていたものと通ずるものがあり
ます。

現時点での答えは一つしかない。「本土も引き受ける」という
ことです。しかし「ほんとうに引き受けてもいい」という人が
本土にあまりにも少ない。

2010年5月、鳩山さんの最後の時期に、政策変更が行われ、
日米間で合意したロードマップに戻ると決定されましたが、そ
の直後、全国知事会が行われましたね。自分の県に基地を持っ
てきてもいいと言ったのは、大阪の橋下知事だけだった。また
政治家のなかで、自分の影響力のある地域である北海道に基地
を持ってきてもいいと言ったのは鈴木宗男さんです。本土はも
っと負担すべきだという抽象論ではなく、自分のところでやっ
てもいいと言ったのはこの二人だけです。これで沖縄の民衆の
怒りがおさまるわけがない。

――「この時に報道された全国知事会の冷たさは、未だに忘れ
ることができない。そこには、沖縄の痛みを一切分かち合おう
としない本土の姿があった。そうした対応を見れば沖縄の人々
がどのような思いを抱くか、彼らはその想像力すら働かせよう
としていないように思えた」と書いておられましたね。

東郷 このままだと、いま佐藤優氏が口を酸っぱくして言って
いる「沖縄の自治化」「日・沖縄連邦化」の流れが強まるのは
必然です。

――「竹島の日」については大きな問題にならずにすみました
が、こんどはサンフランシスコ講和条約が発効した「4月28
日」に政府主催の主権回復を記念する式典を行いますね。沖縄
が納得するはずがない。

先日は琉球新報の1面に、沖縄の小学校と中学校で「琉球史」
を教える、という記事が出ていました。那覇市では、職員採用
試験の面接でウチナーグチのあいさつを取り入れるようになり
ます。沖縄には今、本土とはまったく違う物語が生まれ始めて
います。

東郷 きわめて大事な話です。もしも私が沖縄人だったら、間
違いなくこの琉球史の教育を推し進める行動に参加していると
思います。これこそまさにアイデンティティーの形成ですから。

そもそも沖縄には本来、ヤマトンチュと全然違う歴史がある。
清をめぐる冊封制度でも、琉球とヤマトは違う立場でした。琉
球は清に対してと同時に、ヤマトの実力支配にも服し、ダブル
の統治を受けていた。明治維新の時には、琉球王国はすでにア
メリカと条約を結んでいた。歴史が全然違います。

――沖縄の独立論もまた、尖閣問題をはじめとする領土問題と
直結していると思います。


【原発のコストは計上できない】

――また、東郷さんは国土強靭化法案に批判的ですね。東郷さ
んの「国土」という言葉をめぐるセンスにはヨーロッパでの体
験が息づいていることに、このインタビューの前半で触れまし
た。

ぼくは原発についてもこの観点で考えたいのです。福島では、
原発事故によって「領土が失われた」わけです。それこそ予見
される将来にわたって日本人が住めなくなった。この誰も変更
できない事実に対して、愛国者を自認する人たちの反応は鈍す
ぎると感じます。

東郷 竹山さんは、尖閣、竹島、北方領土の三つに沖縄と福島
を加えて、「五つの領土問題」があると認識しているんですね。

――そうです。

東郷 原子力発電の問題に関しては、「原子力のコストが安い」
と主張する方がいますが、それは「事故がない」という前提の
話であり、事故があった時のコストは高すぎて計上できない。
私は原発推進に危険を感じています。

――『原発のコスト』で大仏次郎論壇賞を受賞した大島堅一さ
んの著作が素晴らしいですね。領土を失ってなお、計算できな
い高いコストは無視する。行き場のない核廃棄物も含めて、や
はり原発問題は深刻な領土問題だとぼくは思っています。


(つづく)


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2013年9月21日土曜日

【オフノート】東郷和彦 39/三つの領土問題――北方領土 その2

【PUBLICITY 1947】2013年9月21日(土)


【オフノート】東郷和彦39
〈三つの領土問題――北方領土 その2〉


――――――――――――――――――――――――――――
vires unitae agunt
協力は事をなす。

クレアンテス
――――――――――――――――――――――――――――


【東郷・パノフ共同提言の価値】

――今年、東郷さんが発表した言論のなかで、最も影響力が大
きいものは「東郷・パノフ共同提言」であることに、誰も異論
はないでしょう。驚きました。


【註】
論文のタイトルは「日ロ平和条約交渉問題の解決に向けて」。
以下は朝日新聞の記事。


――――――――――――――――――――――――――――
2013年7月18日19時8分
「国後・択捉は経済特区に」 日ロ外交官OBが棚上げ案

【モスクワ=駒木明義】北方領土交渉に直接携わった経験を持
つ日ロ両国の元外交官が、問題解決に向けた提言を共同論文で
発表した。18日付のロシアの有力紙「独立新聞」に掲載され
た。歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)2島の日本への引き
渡しの準備を進める一方で、国後(くなしり)、択捉(えとろ
ふ)2島については領有権問題を当面棚上げし、両国が共に経
済活動ができる特区にするとしている。

筆者は日本外務省の条約局長、欧州局長を歴任し、2001年
まで対ロ交渉に直接携わった東郷和彦京都産業大世界問題研究
所長と、ロシア外務次官を務めた後、1996年から03年ま
で駐日大使を務めたアレクサンドル・パノフ米国カナダ研究所
主任研究員。

論文は、4月の日ロ首脳会談で平和条約交渉再開の機運が生ま
れたことを歓迎。今後の交渉を進めるために、早急な成果は求
めないこと▽両首脳を結ぶ非公式の交渉チャンネルを設けて率
直な意見交換をすること、などの条件を整えるよう提言してい
る。

さらに領土問題解決に向けた具体案も示した。(中略)

(1)歯舞、色丹二島を日本に引き渡す時期と条件について交
渉する

(2)それと並行して、国後、択捉に特別な法的地位を与え、
両国が経済活動することができる特別地域とすることを目指す
――との内容。

国後、択捉を日ロどちらのものにするかについては将来の交渉
に委ねる。

特別地域という考え方には前例がある。98年11月の日ロ首
脳会談で、当時のエリツィン大統領が小渕恵三首相に対して、
当面の間、四島全体に特別な法体系を適用して、共同経済活動
に道を開くことを提案した。今回の提言はこの提案をベースに、
歯舞、色丹二島の日本への引き渡しを進める内容を付け加えた
ものと言える。
――――――――――――――――――――――――――――


――乾坤一擲、「ここしかない」というタイミングで、「これ
しかない」という表現形式で、野球にたとえれば渾身のストレ
ートを投げ込んだような、現在の状況下でなしうる最高の民間
外交だと感じました。

東郷 ありがとうございます。


【二人で出来るだけのことをやらねばならない】

――パノフさんの「最大の問題は、現在まったく交渉が行われ
ていないことだ。両国外務省はいずれも何かが起きるのを待っ
ているのか、具体的な準備をしている様子が見えない。何かを
始めなくてはいけない。そのための基礎を示し、交渉を前に進
めさせるための提案なのだ」という一文が、共同提言の意味を
要約しています。

また、「ハフィントン・ポスト」の寄稿で東郷さんは、安倍総
理の訪露以降、領土交渉を進めようとする「風」がパタっと止
んでしまった現状を憂い、パノフさんと「二人で出来るだけの
ことをやらねばならない」と話し合った、と書かれていますね。

共同提言の内容は、東郷さんが繰り返し訴えてこられた「引き
分け」論の具体化されたものだと思いますが、パノフさんとの
議論は難航したのですか?

東郷 「基本」はピタリと合い、「細かな文脈」で議論を重ね
ました。具体的な作業過程は「ハフィントン・ポスト」に寄稿
したとおりです。

【註】
「ロシア語のみをベースに作成された投稿案を、メール添付や
、スキャンして修正テキストにし、英語のメールとロシア語の
電話で話しあいながら、間違いが起きない最終案文に仕上げて
いく」(「ハフィントン・ポスト」2013年8月2日「二島
返還・二島共同立法による北方領土解決案――東郷・パノフ共
同提言の真意」)

東郷 二人が確かめた「基本」は、三つです。

一つは、「この案ならロシアにとっても、日本にとっても負け
にならない」と思える案を産み出すこと。

二つは、その案を、これまでの交渉の中で相互に投げられた様
々な案を活用し、組み合わせることによって見出そうとしたこ
と。

【註】
「結果として、98年の小渕訪ロでエリツィンから提案された「
四島に対して、日本側の立法権による一部統治を含む特別経済
特区を創設する」案と、2000年9月の訪日以来一貫してプーチ
ンが言っている56年宣言適用の二案を同時適用し、国後択捉に
対する共同立法と歯舞・色丹の引き渡しという、共同提案が生
まれた」(「ハフィントン・ポスト」)

この案なら「妥結の基礎」になると考えました。

そして三つめに、「この共同提案は、決して唯一無二のもので
はない」ということです。

――ついに議論の叩き台の全貌が見えた感があります。これま
でのどの「機会の窓」よりも、国民の目に情報がオープンにな
ったように思えます。

東郷 この件に関してパノフと初めて会って打合せした際、お
互いの原案を持ち寄りました。私は大学ノートに双方が「引き
分け」と思える七つのオプションを書き、パノフに見せました。

――同じ「引き分け」でも、日本が有利な引き分けから、ロシ
アが有利な引き分けまで、合計七つの選択肢、ということです
ね。

東郷 そうです。じつは、パノフがまとめてきた案は、ちょう
ど私が考えた七つのオプションのうち、「真ん中」の案と同じ
だったのです。驚きました。そのスタート地点から議論を詰め
ていったのです。

――お二人の共同提言は、まず7月18日にロシアの『独立新
聞』、翌日付で日本の朝日新聞に報道され、共同提言の全文の
日本語版が朝日のデジタル版に掲載されました。ロシアでの報
道を日本で追いかけるかたちをとったことにも、知恵が滲んで
いると感じました。朝日の駒木明義記者の文章からは、「この
共同提言は重要なのだ」という緊迫感が伝わってきました。

東郷 そうですね。私とパノフとの共同作業に加え、ロシアの
『独立新聞』への投稿と日本の朝日新聞の協力という枠組みが
あって、あの時点であのタイミングで発表できたということで
す。しかしまず『独立新聞』で発表された後は、共同通信、産
経新聞、北海道新聞などの取材も行われ、幅広い報道に連なっ
ていったように思います。ありがたいことです。

ロシアの独立新聞の〆切が迫り、しかしまだ文言が最終決定に
至らず、私が東京から京都へ向かう新幹線のデッキで1時間ほ
ど、モスクワにいるパノフから携帯電話がかかり、ロシア語で
議論して最終的な文言を決める場面もありました。久しぶりに
「外交」をめぐる「時間との勝負」を経験しました。

――9月5日、G20でサンクトペテルブルグを訪れた安倍総
理はプーチン大統領と会談し、11月1日、2日に東京で「2
プラス2」を開くことが合意されました。いっぽう、5月には
「面積二等分論」が報道されたりしました。領土交渉の実務の
当事者であった経験から、コメントをお願いします。

東郷 依然、厳しいことには変わりありません。まず、プーチ
ンのシグナル(2012年3月1日のG8を代表する記者会見
)を、日本の外務省は1年4ヶ月も放置してしまった。これに
は弁解の余地はない。ギリギリの戦いが続いています。

結局、領土問題をめぐる外交交渉の現場は、双方合わせて10
人前後で決まるといっていいと思います。

私が北方領土交渉に取り組んだ際も、プレスへの不可解なリー
クが相次ぎました。それではとても「本音」で話せません。本
音の議論は、当時の外務事務次官、政務担当外務審議官、総合
外交政策局長、条約局長、欧亜局長の五人のみで議論し、決し
て他に情報が漏れることのないように細心の注意を払った。内
部から佐藤優氏の強力な情報と献策があり、政治的には鈴木宗
男先生の一貫したサポートがあった。

対するロシア側にはロシア外務省きっての知日派のパノフが駐
日大使でおり、ロシュコフ次官とパノフの信頼関係は盤石だっ
た。外務大臣には、ロシア側はイーゴリ・イワノフ、日本側は
河野洋平大臣。そういう全体的構図の中から、イルクーツク声
明が生まれてきた。決して偶然の産物ではないし、こういう構
図の中にいたこと自体、非常に恵まれていました。「イルクー
ツク声明」への道を切り開くことができたのは、必然だったと
もいえるかもしれません。

現状は、当時とくらべると、非常に厳しいと言わざるをえませ
ん。現在任についている人について具体的にコメントすること
は、差し控えるべきだと思っています。

しかし、あえていうなら、この10年間、ロシア側で交渉を進
めようという意思をもち続け、かつ、それを適時に表明し続け
てきたのは、パノフとプーチンの二人だけのような気がします。
この二人のいる間に決着をつけるのが、日本にとって最善であ
ると思わざるをえません。

日本側では、これからの事務レベルのキーパーソンは、総理の
そばに谷内正太郎・内閣官房参与、兼原信克・内閣官房副長官
補、外務省に齋木昭隆事務次官、杉山晋輔政務担当外務審議官、
上月豊久欧州局長、石井正文国際法局長のチームになると思い
ます。とてもすぐれたチームだと思います。

繰り返しますが、これまでのすべての交渉を総括すれば、解決
は「引き分け」、そのもっともわかりやすい「交渉の出口」は
「2島+α」です。未だに「α=ゼロ」と決めつけて、「四島
一括」がでてくるまで待てという方もおられる。正義の旗を堅
持すること自体が最高の国益だというご意見は承ります。

しかしそこに固執すれば、私の見るところ、予見される将来、
交渉は動かない。その結果は、日本にだけ関係のない四島が、
かくも日本に近く登場するということになります。あと22年
たてば、正義の下の日本統治90年よりも、不正義の下のロシ
ア領の統治期間が長くなっていきます。そこにおけるロシア住
民はそこそこに満足した生活をしている。国際法でも、実効支
配の重さは増えてきています。そういう状況が進行し、島はか
えってくるでしょうか。

決着をつけ、事態を動かすところにいるのではないでしょうか。


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2013年9月20日金曜日

【オフノート】東郷和彦 38/三つの領土問題――北方領土 その1

【PUBLICITY 1946】2013年9月20日(金)


【オフノート】東郷和彦38
〈三つの領土問題――北方領土 その1〉


――――――――――――――――――――――――――――
mage cavenda amicorum invidia,quam insidias hostium.

敵の伏兵よりも友人たちの嫉妬に用心すべし。
プブリリウス・シュルス
――――――――――――――――――――――――――――


【最後の窓】

――今年の1月、ずっと非公開だった「92年提案」に関する
東郷さんの重要な証言が産経新聞の1面トップに載りました。


――――――――――――――――――――――――――――
東郷元欧亜局長が証言
露、平成4年に秘密提案「平和条約待たず2島返還」
2013年1月8日付

北方領土交渉をめぐりロシアが平成4(1992)年、平和条
約締結前の歯舞群島、色丹島の返還と、その後の国後、択捉両
島の返還に含みを持たせた提案を秘密裏に行っていたことが7
日、分かった。外務省で領土交渉に携わった東郷和彦元欧亜局
長が産経新聞に証言した。これまで提案の存在自体は知られて
いたが詳細が判明したのは初めて。旧ソ連時代とは異なり踏み
込んだ提案だったが、四島返還の保証はなかったため日本側は
同意せず「幻の提案」として終わった。

提案は当時の渡辺美智雄外相とコズイレフ外相の会談の席上、
口頭で行われた。ロシア側は(1)歯舞、色丹を引き渡す手続
きについて協議する(2)歯舞・色丹を引き渡す協定を結ぶ(
3)歯舞・色丹問題の解決に倣う形で国後、択捉両島の扱いを
協議する(4)合意に達すれば平和条約を締結する-と打診。
エリツィン大統領の了承はとっていなかったが、日本側が応じ
れば正式提案とする可能性があったという。

歯舞・色丹の返還を先に進めるという点で昭和31(56)年
の「日ソ共同宣言」とは違った内容だ。さらに協議の行方によ
っては国後・択捉の返還の可能性も残した。東郷氏は提案の特
徴について「平和条約を待たずに歯舞・色丹を引き渡すという
譲歩をロシア側はしている。日本側には四島一括の看板を取り
下げ歩み寄ってほしいと要請している」と指摘する。

これまで東郷氏は著書『北方領土交渉秘録』(新潮社)で「9
2年提案」と存在は認めていたが、交渉が継続していることも
あり内容については明かしてこなかった。ところが昨年12月
、当時のロシア外務次官ゲオルギー・クナーゼ氏が北海道新聞
の取材に対し「92年提案」について、歯舞・色丹の引き渡し
手続きに合意した後に平和条約を締結し、その後、日露間でふ
さわしい雰囲気ができれば国後・択捉を協議する、との内容だ
ったと述べた。

東郷氏は会談には同席していなかったが、クナーゼ氏の発言に
ついて「事実関係が異なる。この内容が独り歩きしたら90年
代の日露交渉がわからなくなる」として証言を決断した。

日本側が提案を拒否した理由としては、四島一括返還要求を捨
てることへの拒否感、もう少し譲歩を引き出せるのではとの誘
惑などが挙げられるとした。

東郷氏は「旧ソ連崩壊後で日露の国力に大きな差があった時で
すら四島一括提案ではなかったことを認識すべきだ。(当時と
状況は変化したが)それでも今、ロシアは交渉に応じる姿勢を
示している。安倍晋三首相にはプーチン大統領と勝負してほし
い」と語る。
――――――――――――――――――――――――――――


東郷 以前から私は「北方領土交渉は今年(2013年)が最
後だ」と思っています。その最後の判断をする時に、国民は「
過去の交渉の一番重要な事実」は知っているべきだと考えます
。しかし、外交ですから、どうしても言えないことがあるわけ
です。

もちろん、クナッゼが黙っていれば、絶対に私はなにも言わな
かった。ところがあの北海道新聞でのクナッゼの発言をそのま
まにしておくと、北方領土交渉について日本国民が「誤った情
報」をベースに考え、判断させられることになってしまう。そ
の事態を、私は避けなければならないと考えました。

また、クナッゼがあそこまでしゃべったことによって、ロシア
国内における彼の立場に対する心配はしなくてもいいと判断し
ました。

そのうえで、いちばん言いたかったことがあります。

――教えてください。

東郷 「2島プラスアルファ」の議論について、私がいちばん
訴えたかったのは、そしてなかなかどのメディアもはっきり書
いてくれないのは、まず、北方領土については少なくとも大き
なチャンスが3回あったということ。第1回はこの時です。

――1991年から1992年ですね。

東郷 そうです。そして第2回は、その失敗を十分念頭に置い
て、私とパノフ、ロシュコフたちで取り組んだ2000年から
2001年ですね。

それでもダメだったが、3回目があった。それは安倍さんが首
相、麻生さんが外務大臣、谷内さんが外務次官の時に、「面積
の等分論」というものが出てきました。私は驚きました。なん
らかのフレキシビリティー(柔軟性)を考える、ということだ
ったのでしょう。2006年に始まり、7年、8年、9年と続
きましたが、鳩山内閣の時、2009年11月の(鈴木宗男衆
院議員の)質問主意書に対する政府答弁書の中に「不法占拠」
と書いた、それにロシアが激怒した。この3回目はけっこう長
く続きました。3年半は続いたんですね。

しかしこの3つとも、日本は失敗してしまった。このなかで、
いちばん大きな解決の可能性があったのは、なんといっても9
2年だった。あれだけの提案が出てきたのに、それを基礎に交
渉しなかった。いま私の話す人のうち、四分の三は、「どうし
てあれ(あの提案)をとらなかったんですかね」と尋ねてきま
すよ。いっぽうで「あんなもの、のめるわけがないじゃないか
」という人もいます。

私の目には、あの提案には「日本が失うものはない」ように見
える。しかし、たしかに「四島一括」ではない。歯舞と色丹に
ならって、国後と択捉について交渉して、妥結したら平和条約
を結ぶ、という提案ですから、ならって、交渉しても、妥結し
ない可能性があるじゃないか、と問われれば、その通りなんで
す。それでも「四島一括の平和条約を結ぶ」という旗はおろし
ていない。しかも歯舞と色丹は返ってきている。

――ぼくも、東郷さんの証言を読んですごい提案だったんだな
と思いました。

東郷 「四島一括ではないから」こんな条件はのめない、とい
う声が、未だに日本の中にあるんですね。しかし私は今、大部
分の人たちはそうは思っていないと思います。

ですから、私がいちばん言いたかったことですが、あの、日本
が強くて、ロシアが弱かった、92年の時にロシアが出してき
たあれだけの譲歩案を、日本は受け入れなかった。

そして今、その後の国際情勢の大きな流れで、ロシアの国力が
増えて、日本の国力が弱ってきている。そうである以上、

「あのような好条件の案は、もはや出てこない」

ということです。

――なるほど。それはそうですね……。

東郷 あれから日本の国力が低迷し、漂流し、対するロシアの
国力が上がってきて今日に至っている以上、3回の機会の窓を
日本がつかみ損ねたということは、今回の、予見される将来に
わたる「最後の機会の窓」で、日本がつかめるものはもっと小
さくならざるをえない。このことを私は言わざるをえない。

「四島一括でないといかん」という考えは、いまの国際情勢を
見た時、私にとっては四島の返還にはまったくつながらない「
正義の旗」です。「いずれロシアは崩壊するかもしれない」と
か、「ロシアは中国が怖いから、なにがなんでも日本と手を結
ぶんだ」とか、そういう意見がありますが、これにも、まった
く根拠があるとは思えない。そういう議論が優越してきて、結
局また「四島一括でなければダメだ」となれば……。

――目も当てられない状況になりますね。

東郷 「プラスアルファ」であっても、今の段階では甘受して、
それによって事態の具体的な変化を起こすしか方法はないと思
います。でもここまではどのメディアもなかなか書いてくれな
い。安倍政権が最善の手を打つことを願っています。

四島交渉における最大の失敗は「完全な取りはぐれ」です。完
全に取りはぐれた場合、日本はどうしますか、と問われた時に、
ひとつのオプションは「戦争」です。「四島一括しかダメだ」
と訴えている人たちに、戦争で取り返すつもりはあるのか。

「ある」というのなら、話はまったく別ですよ。それはこれま
での日本とまったく違う国家像ですね。それは、先ほども申し
上げたように、19世紀的帝国主義に戻ることに等しいと思う。
僕は、そうなっていいとは思わない。日本の平和主義をもう一
度生き直させるためには、北方四島に対して武力は使わない、
ということです。非常に重要なところに差しかかっている。

「尖閣」についても同じです。中国がこうなった以上、日本が
同じことをやったとしても、文句を言われる筋合いはない。い
まの中国はほんとうに無茶をしている。日本には「俺たちがほ
んとうに怒ったらどうなるか知っているのか」という思いをも
つ世代の人々もいる。

しかし、「日本は中国と同じレベルで戦うことになっていいん
ですか」と私は問いたい。それこそ300万の英霊がなんのた
めに死んだのか。もう一度、同じことをやるためなのか。

『世界』に書いた「『村山談話』再考」に、『きけわだつみの
声』の木村さんという人の文章を引用しました。日本国がやり
すぎた部分も、自分が一身に背負って処刑されるのならいい、
あの軍国主義の連中のために死ぬと思ったら耐えられない、と
いう趣旨の文章です。


【註】

▼東郷さんは、月刊誌「世界」の2012年9月号「『村山談
話』再考」で、「私は、敗戦のあと、歴史の不条理をもっとも
過酷な形で引き受けさせられ、B級戦犯として刑死した学徒兵
の悲痛な遺書に、おそらくは、村山談話を受け入れる精神的な
基礎があるように思えるのである」と書いた後、その学徒兵の
遺書を引用している。


――――――――――――――――――――――――――――
日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難の真只中に負けた
のである。日本がこれまであえてしてきた数限りない無理非道
を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界
全人類の気晴らしの一つとして死んでいくのである。これで世
界人類の気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本人
の幸福の種を遺すことなのである。(中略)

日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日
本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立た
ない。笑って死んでいける。(中略)

苦情を言うなら、敗戦と解っていながらこの戦を起こした軍部
に持っていくより仕方がない。しかしまた、更に考えを致せば、
満州事変以来の軍部の行動を許して来た全日本国民にその遠い
責任があることを知らねばならない」

(木村久夫、1946年5月23日、シンガポールのチャンギ
刑務所にて戦犯刑死。28歳)『新版きけわだつみのこえ』(
1995年、445~446頁)
――――――――――――――――――――――――――――


東郷 彼は犬死だったのか。断じて犬死にさせてはならない。
村田良平さんは、「村山談話」の発表は300万の英霊を犬死
させたことになる、とおっしゃった。それはたしかに一理ある
のです。しかしそれだけではないだろうと私は考える。日本の
平和主義を確立するために、戦争と一線を画そうとした時に、
やりすぎた部分はストレートに「やりすぎました」と認めるこ
とが、日本に道徳的な優先権を与えることになると思う。そう
した眼で「村山談話」を読み直すと、これはすごい文章です。
しかし、すごいと思っている人がきわめて少ないと思います。

――右バネが強いですね。

東郷 繰り返しますが、右バネに影響されている人に「中国に
挑発されて、中国と同じレベルの国家に戻るんですか」と問い
かけたい。「think twice」(=よく考え直そう)です。

いま進んでいる中国の19世紀的帝国主義への回帰は、日本に
大きな哲学的、道徳的、政治的、軍事的な優先権を与えてくれ
ている。危機が機会です。今こそ新しい哲学と、新しい思想と、
新しい外交政策を確立する稀有の機会だと思います。

(つづく)


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2013年9月18日水曜日

【オフノート】東郷和彦 37/ある外交官の一生

【PUBLICITY 1945】2013年9月18日(水)


【オフノート】東郷和彦37
〈ある外交官の一生〉


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in tuum ipsius inspice.

汝自身の胸を見よ。
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【「脱亜の物語」を考える】

【註】
▼今号は長い註から始めたい。東郷さんの話を聞きながら、ア
ジアの悲劇について考えていた。思い出す歴史上の人物がいる。

ナショナリズムについて旺盛な執筆を続けている松本健一さん
の著書『近代アジア精神史の試み』(2008年1月、岩波現
代文庫。単行本は1994年1月、中央公論新社から)のなか
に、「孤立する自覚者――ファン・タインザン」という章があ
る。

坪井善明著『近代ヴェトナム政治社会史』(東京大学出版会)
を基に、ファン・タインザン(潘清簡)というベトナムの外交
官の一生を紹介している。

ファン・タインザンとは、嗣徳帝時代の外交官である。嗣徳帝
が即位したのは1847年。アヘン戦争終結の5年後である(
因みにアヘン戦争が当時の日本人に与えた衝撃の大きさは、現
在の日本人の想像を絶する)。没したのは1883年。清仏戦
争の前年である。

この時代を一言で言えば、「フランスの帝国主義に襲われた時
代」だった。


――――――――――――――――――――――――――――
1859年12月2日、フランスはサイゴンを占領した。これ
に対して、ユエ宮廷は旧黎(レ)朝の末裔の反乱を鎮圧するた
めに全力を投入したかったので、フランスとスペインからのコ
ーチシナ東部三省の割譲要求をのんだ。

そうして、嗣徳帝は全権使節のファンに、早期に平和条約を締
結するように命令した。このため、かれは1862年、屈辱的
な第1次サイゴン条約を結ばざるをえなかった。(中略)

(その後)嗣徳帝はファンを全権使節の任から解いたものの、
コーチシナ問題の主席担当官に任命している。帝はファンの力
によって、手放したコーチシナ東部三省を奪回させようと密か
に決意していたのである。そのため、かれを主席代表とする使
節団をフランスに送り、仏皇帝との直接交渉を試みさせた。

92頁
――――――――――――――――――――――――――――


▼ファンは、条約修正の約束をとりつけて帰国する。彼は帰国
後、衝撃的だったヨーロッパ体験の日記を綴るとともに、ベト
ナムの近代化のために外交、貿易、財政、税制、軍事、通信、
教育など、多岐にわたって幾つもの提言を行なっている。

その内容を詳述する余裕はないが、松本さんが「ベトナムの渡
仏使節団についての記述をみると、幕末から明治にかけてのわ
が遣米、回欧使節団、あるいは不平等条約改正のための使節団
のそれをみているかのごとき錯覚にとらわれる」(93頁)、
「ベトナムのファンがフランスに渡って目覚めた近代=西洋文
明の意味に、(佐久間)象山や(横井)小楠はそれよりすこし
まえ日本にあって目覚めていた、といえるのかもしれない」(
98頁)と述べている箇所を紹介しておけばまず足りるだろう。

夷語(いご)を以って夷を制す。この簡潔なフレーズは、近代
アジアの宿命を、少なくともその大きな断面を切り取るキーワ
ードである。

▼しかし、「儒教的な精神によって政治を行なうことを目的と
している嗣徳帝やその周囲の官人たちは、この近代化計画に賛
成しなかった」(96頁)。無念だったろうと思う。以下はフ
ァンの嘆き。


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「大使としてフランスの都に遣された日以来、西洋文明の精髄
を目の前にし、恐れの混じった感嘆の念を禁じ得なかった。国
に戻ると、同胞たちに説いて、彼らを目覚めさせ、かくも長い
年月どっぷりとつかってきた無気力から脱け出させようとした。
なんたることか! 私が彼らを説得しようといかに努力しても、
誰一人私の言葉の真実を信じないのである」(坪井善明訳)

97頁
――――――――――――――――――――――――――――


▼フランス国内では、海外進出派が条約修正に猛反発。世は帝
国主義の全盛期である。フランス政府は新条約を破棄。186
5年にコーチシナ東部三省がフランスに併合される。

ファン・タインザンは、70歳を迎えようとしていた。


――――――――――――――――――――――――――――
フランスの植民地獲得熱はますます高まっていた。2年後の1
867年3月、仏領コーチシナ総督ラ・グランディエールは、
ヨーロッパの外交危機が落ち着き、コーチシナで雨季--河川
の水がふえ、砲艦の航行が可能になる--がはじまったならば、
西部三省をも併合しよう、という決定を下した。

1867年6月15日、ラ・グランディエール総督はサイゴン
を出発し、6月20日から27日にかけて、コーチシナ西部三
省を占領した。ファンが経略大臣となっていた永隆(ヴィンロ
ン)省をはじめとして、朱篤(チャオドック)省、河■(ハテ
イエン)省の城は、ほぼ無抵抗で門を開いたのである。

この無抵抗による開門を指令したのが、ファンだった。

100頁
――――――――――――――――――――――――――――


▼なぜファンは無血開城の命令を下したのか。


――――――――――――――――――――――――――――
ファンとすれば、フランスによる新条約の破棄のあたりから、
かれがヨーロッパ(フランス)近代文明に対して抱いていた畏
敬と希望とは、無惨にも打ち砕かれはじめていたろう。そして
いまや、フランスはその帝国主義的野心をあらわにしてコーチ
シナ西部三省の占領さえ行なっている。

これにベトナムが抵抗したところで、無駄な死者をふやし、民
族を勝ち目のない戦いに追いやるだけだ、というのが、このと
きのファンの苦渋にみちた判断であったろう。

無血開城は、とすれば、かれの絶望のはての選択であったにち
がいない。

だが、無血開城の一ヶ月あまりのち、1867年8月4日(嗣
徳20年7月5日)、ファン・タインザンは永隆省の城砦で断
食のはてに自死した。日本の明治維新の1年前、薩長の倒幕路
線が確立したころである。

そのファンの自死の場面を、レ・タイントゥオンは次のように
描いているという。


 断食17日目になっても潘清簡はまだ生きていた。死を早め
 るために、彼は一杯の茶碗にアヘンを用意し、北、即ちユエ
 の方向を見つめた。

 皇居の方向に五回叩頭礼をすると、あぐらをかいて坐った。
 それから毒をあおり、そして周囲にある、故郷を思い出させ
 る品々全てを見回し、祖国と君主を思って心を締めつけられ
 、涙を流した。……彼は丁卯の年(1867年)7月5日、
 71歳で息を引きとった。


ファンの悲劇は、ヨーロッパ近代の画期的な意味に目覚めたも
のがヨーロッパ帝国主義の力によって蹂躙されてゆく、という
アジア近代のイロニーの象徴である。

かれは、ヨーロッパ近代のなかでアジアとしての自己を洗いだ
した。そのことによって、アジアの近代化をすすめようとした。
その結果、いまだアジアを自覚せざるものたちから孤立する困
難な道を歩まざるをえなかった。無血開城のはての自死は、そ
の孤立の道すじを物語っている。

たとえば、かれは1862年の第1次サイゴン条約に調印した
ことによって、フランス占領軍にゲリラ戦をいどもうとしたコ
ーチシナ人たちから、「潘林売国、朝廷棄民」というスローガ
ンを投げつけられた。全権使節の潘清簡と林維■(ラムズィテ
ィエップ)は祖国を売った、というのである。

つまり、ファンは朝廷(皇帝および官人)からはその近代的改
革の道を拒まれ、抵抗の闘いをする民衆からは売国奴よばわり
されたのである。

ここに、かれの孤立の相はきわまったといっていい。(中略)

ファン・タインザンの自死から数えて15年後、フランスはベ
トナムへの全面的侵略を開始した。すなわち、1882年4月
25日、リヴィエール大佐の指揮する仏軍はハノイを占領した
のである。翌83年3月にはナムディンも占領した。

これに対して、ベトナムは清朝に応援をたのみ、劉永福の黒旗
軍が出動する。1883年5月19日、ベトナムのゲリラ軍は
この黒旗軍と協力して、ハノイ郊外で仏軍を破った。

その戦闘の過程で、リヴィエール大佐は戦死してしまった。フ
ランスの威信は傷つき、世論の激しい後押しによって、ジュー
ル・フェリー内閣は「フランス人の血の償い」を名目に、ベト
ナムへ大軍を派遣し大々的に侵略を展開するようになった。

100-103頁
――――――――――――――――――――――――――――


▼ここで使われている「血の償い」などという論法は、うんざ
りするほど繰り返され、いまも繰り返されている代物だ。国家
とは組織とは、根本的にそういう傾きがあるものなのだろう。

この後、ベトナムの歴史は「絶対に負けない」と言われていた
フランス軍に圧勝した名将ヴォー・グエン・ザップの闘争、そ
してアメリカとの酷烈な戦争へと続く。それはアジアの民衆が
「自由」とか「民主主義」という西洋の理念を掲げて西洋と闘
った"イロニー"の歴史でもあるのだが、それもまた別のお話で
ある。中公文庫から数年前にザップの本――その本を読んでベ
トナム国民は抵抗の勇気を保ったと言われる――が再刊されて
いるので、興味のある方はどうぞ。

▼じつは、ぼくが今回引用したかったのは、ここからだ。松本
さんは次のように指摘する。


――――――――――――――――――――――――――――
(ベトナムの)こういう情勢を目に入れながら、福沢諭吉(1
834-1901)は「安南(ベトナム)の風雨我日本に影響
する如何」(『時事新報』1883=明治16年6月9日号)
において、次のようにいっている。

 安南は遠方の国にして、其国が仏蘭西の為に滅さるるも又保
護さるるも、固より以って吾人の痛痒とするに足らず。

ここに一年半後の「脱亜論」における、福沢のアジアに対する
冷淡さと同じものをみることも可能だが、それ以上に福沢が強
調したかったのは、蒸気機関と電信を利用した西洋の侵略の圧
倒的な力であった。アジアの諸国はそのことに気づいていない、
ということが、福沢をしてアジアをついに謝絶すべき「悪友」
(「脱亜論」)とみなす発想をとらせたのである。(中略)

(福沢は別の論文で)西洋の文明力を利用した「侵略」がベト
ナムに及び、まだ朝鮮に及んでいないのは、ただたんに西洋か
ら「遠方」にあったにすぎない、と推理するのである。

福沢のその推理から、「脱亜論」まではわずかに一歩である。
すなわち、文明力を利用した西洋の「侵略」に危機をおぼえな
いアジアの国々とは手を切るしかない、と。


 されば今日の謀をなすに、わが国は隣国の開明を待って共に
 アジアを興すの猶予あるべからず、むしろその伍を脱して西
 洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法も隣
 国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人がこれに
 接するの風に従って処分すべきのみ。

 悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。われは心にお
 いてアジア東方の悪友を謝絶するものなり。


こういった「脱亜論」の思想は、渡辺俊一が「フランスのベト
ナム侵略と福沢諭吉」における仮説において述べていた、ベト
ナム問題それじたいから生みだされているというより、むしろ、
ベトナム問題をみずからの運命の手がかりと自覚しない朝鮮に
対する絶望から生みだされていた、と考えるべきであろう。

103-105頁
――――――――――――――――――――――――――――


東郷 「脱亜論」が発表されたのは1885年です。あの文章
について私は、アジアを脱する「苦しみの文章」であると思っ
ています。

その約10年後(1894年)に日清戦争、さらに10年後(
1904年)に日露戦争でしょう。「脱亜」によって育った「
果実」は、日露戦争によって完全に「刈り取った」わけです。

――辛うじて勝ちました。

東郷 それまで「脱亜」を唱えて突き進んできた。しかし、日
露戦争に勝ったことによって、国際的な政治状況はまるで変わ
ったわけです。ですからもうちょっと、あの時点でアジアに対
する態度がなんとかならなかったのか。結果的に、ならなかっ
た。残念でならない。

日本の勝者としての傲り、勝ったことによる傲慢は、あの時点
から始まったのだと思います。


(つづく)


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