【編集方針】

 
「本が焼かれたら、灰を集めて内容を読みとらねばならない」(ジョージ・スタイナー「人間をまもる読書」)
 
「重要なのは、価値への反応と、価値を創造する能力と、価値を擁護する情熱とである。冷笑的傍観主義はよくて時間の浪費であり、悪ければ、個人と文明の双方に対して命取りともなりかねない危険な病気である」(ノーマン・カズンズ『ある編集者のオデッセイ』早川書房)
 

2014年12月14日日曜日

衆院選の意味

要注意! 無印は「支持」と同様に扱われます。

2014年12月12日付「東京新聞」20面
最高裁判事国民審査についての意見広告


【PUBLICITY 1960】2014年12月14日(日)
■衆院選の意味■


▼「沖縄タイムス」で大変勉強になる記事を読んだ(2014年12月11日付)。憲法学者である木村草太氏のインタビューだ。(社会部・下地由美子記者、デジタル部・與那覇里子記者)

きょう14日の衆院選では、最高裁の裁判官の国民審査も合わせて行われる。きのう寝込んでしまったので、書くのが遅れてしまったのだが、木村氏の論は、この国民審査について考える参考になり、かつこの「考え方」そのものがこれからいろいろ考える際の参考にもなるので、紹介しておこう。『国家と秘密』の紹介は次号以降に持ち越しってことで。

▼木村氏の論で重要なポイントは、以下の考えだ。

〈政治が都合のいい人事をするときの最大の特徴は、きちんとしたキャリアを積んでいない人を裁判官にすることです。政権にどんな意向があっても、やはり違憲なものは違憲なんです。裁判官は法律論で動きます。政権側の通したい法律論に無理があればあるほど、裁判官として任命できる人は限られてきます。

たとえば集団的自衛権を合憲と言ってくれる裁判官を選ぼうとすると、誰がみても有名でない法学者とか、裁判官の経験が少ししかない人のように、相当不自然な形になる。そういう人選では、最高裁がねじまげた憲法解釈をしてしまうことになります。〉

そりゃそうだナ。「裁判官は法律論で動きます。政権側の通したい法律論に無理があればあるほど、裁判官として任命できる人は限られてきます」という論理が重要だ。

▼きょうの国民審査で、鬼丸かおる、木内道祥(きうち・みちよし)、池上政幸、山本庸幸(やまもと・つねゆき)、山崎敏充の五氏が審査されるわけだが、ぼくは5人とも×。それぞれのくだしてきた判決に賛成できない。

木村氏はさらに突っ込んで、こう言っている。〈審査を使いこなすために大切なのは、シンプルに最高裁の裁判に興味を持つこと。全体の傾向が嫌だからと、全員にバツをつけても問題ありません。判決に反対意見を付けた人がいても、説得できなかったという点では全体の責任なのです。〉という。

これって当たり前のことなんだが、【全体の傾向が嫌だからと、全員にバツをつけても問題ありません】とハッキリ言ってもらわないと、「え、そんなことやっちゃっていいの?」と感じたり、躊躇したりしている人も多いだろう。きょうだけでなく、これからのあれこれを考えるためにも参考になる大切なインタビューだと思う。

また、木村氏は〈不都合なことを指摘されてすぐに怒り出したり、話をそらしたりする人は信用できません。不都合でも誠実に向き合い、解決策を探せる人を探し出すしかないと思います〉とも話している。これも「あたりまえ体操」で使えそうなくらい当たり前のことだが、こうした当たり前のことが当たり前でないと感じる出来事がたくさんあるから、木村氏は丁寧に説明してくれているのだろう。

彼の指摘の射程範囲は、「一票の格差」問題にとどまらない。

▼冒頭に引用した東京新聞の意見広告もまた、国民審査だけにとどまらず、たとえば衆院選にもあてはまる。無印=棄権は「支持」と同様に扱われる。

投票に行く人は、自分の得られる利益を増やすために行く。ょうの衆院選は大切な、とても大切な選挙であるにもかかわらず、投票率は下がるだろう。もちろん、投票に行く人が誠実なわけでもなく、行かない人が不誠実なわけでもない。

非正規雇用という「階級」の人口が増えているにもかかわらず、その受け皿となる政党がないと感じる人も増えているところにニッポンの国政の深刻な問題がある。坂野潤治氏の〈「階級史観」の復権〉という短文を読んで、そう感じた。(講談社の「本」2014年12月号)

きょうの衆院選は、格差社会ってどう動くものなのか、を示すひとつの象徴となるだろう。もちろん、きょうの衆院選が意味することは、それだけではないが。


▼本誌をEマガジンで登録されている方は、「まぐまぐ!」か「メルマ!」での登録をオススメします。

まぐまぐ

メルマ


竹山綴労


(読者登録数)
・Eマガジン 4694部
・まぐまぐ 106部
・メルマ! 75部
・AMDS 22部