【編集方針】

 
「本が焼かれたら、灰を集めて内容を読みとらねばならない」(ジョージ・スタイナー「人間をまもる読書」)
 
「重要なのは、価値への反応と、価値を創造する能力と、価値を擁護する情熱とである。冷笑的傍観主義はよくて時間の浪費であり、悪ければ、個人と文明の双方に対して命取りともなりかねない危険な病気である」(ノーマン・カズンズ『ある編集者のオデッセイ』早川書房)
 

2015年10月24日土曜日

春画展余聞(よもん)、あるいは公序良俗と自由 その3


【メディア草紙】1988 2015年10月24日(土)

■春画展余聞(よもん)、あるいは公序良俗と自由 その3■


▼今号は、この週末に「あら、わたしも春画展行ってみようかしら。ちょっと遠いけど」と思う人が増えてほしいものだ、という内容です。

▼前号では思いつくまま、とりとめもなくメモしてしまった。前々号、前号のポイントをまとめると、

・永青文庫の「春画展」は素晴らしい
・しかし週刊誌に春画を掲載すると触法(2015年から)
・「猥褻(わいせつ)」のもともとの意味は「ふつうの人の普段着」
・ニッポンの権力は芸術や文化の価値判断にまで手を突っ込む

こんなところだ。

▼今号では、春画の豊かさが綴られた名著を紹介したいのだが、その前に前号の補足を二つだけ書いておくと、まず、警視庁から口頭指導を受けた4雑誌のうち、「週刊ポスト」が「春画は日本が世界に誇るべき伝統文化であり、芸術作品とあくまで考える」と書いているのだが、「誇るべき伝統文化だからOK」「芸術だからOK」という論理は、裏返せば「誇るべき伝統文化でなければ、芸術でなければ取り締まるのはOK」ということになる。そんな「上から目線」の価値観に堕落しちゃって、大丈夫なのか?

▼もうひとつは、この「口頭指導」がほとんど話題になっていないことが気になる。今回の警視庁保安課による威嚇は、永青文庫が勇気をもって開いた歴史的な春画展がきっかけなわけだが、そしてこの春画展の後援には、なぜか朝日新聞社と産経新聞社が名を連ねているのだが、なぜ自分たちの紙面でもっと大きく取り上げないのだろう? 両紙でタッグを組んで「公序良俗と自由」について特集すれば、もっと注目されて、もっと売り上げが上がり、もっと言論が豊かになるのに、不思議なことだ。

しかし、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に象徴されるように、情報共有のあり方が激変し続けている時代だから、春画を、つまり「文化」を楽しむ人々にとって、とっくにマスメディアはスルーされているのかもしれない。警視庁が定義する「文化」にいちいちぶつからなくても、誰かが立派なイベントをつくってくれれば、存分に楽しむだけの眼(まなこ)と術(わざ)とを、使いこなす人が増えているのかもしれない。


▼春画をめぐる名著の紹介に入りたい。

まず、三省堂書店神保町本店の4階に、春画特集の棚があり、そこで25000円の『大英博物館 春画』(小学館)が閲覧できるようになっているそうだ。前々号でぼくはダンボール箱に入ったままと書いていたので、訂正します。この大著は、大きな本屋だったら見れるようになっているかもしれない。現時点で本書に匹敵する春画本は見当たらない。

しかし、そんな高額の本は買えっこないから、手頃なものを、と探すわけだが、春画についていちばん手際よくまとめた一冊が、失笑してしまうが、文春新書の(笑)『春画入門』(車浮代氏)。

カラー図版が多く、でかいチンコ、でかいマンコがふんだんに掲載されている。編集長が自主処分された「週刊文春」と、この「文春新書」とを並べてみると、じつに滑稽(こっけい)だ。ついでに「文藝春秋」にも、自主処分された「週刊文春」に載ってるのとまったく同じ春画が掲載されている。

ということで、警視庁保安課の基準(2015年度、忖度〈そんたく〉含む)によると、春画掲載については「週刊誌はNG」「単行本はOK」(というか週刊誌以外はOK)ということになる。NHK朝ドラの「あさが来た」のセリフでいうと、「あほらし」の一言に尽きるが、こういうあほらしい成り行きなら、警視庁向けに、「週刊ポスト」のような「春画は誇るべき伝統文化なり!」「春画は芸術だ!」戦術で、どしどし既成事実をつくっていく人がいたほうが賢明なのかもしれない。文化の流れは、国家の歴史よりも遥かに長く、広く、深いものだから。実際、結果的に、現在の春画の「社会的地位」はそうやって確立されたのダ。

▼先に触れた『大英博物館 春画』に名を連ねる、錚々(そうそう)たる執筆者35人のなかで、ただ一人、どの学術機関の肩書きも立場も持っていない人物がいる。2014年に74歳で死去した白倉敬彦氏だ。今号と次号(たぶんネ)は、彼の遺した一冊の文庫本を紹介したい。彼はおそらく、誰よりも永青文庫の「春画展」を見たかったであろう人だ。残念ながら、その願いは叶わなかった。

白倉氏の執筆した本はどれも面白いが、最近、講談社学術文庫で復刊されたなかりの『春画の色恋 江戸のむつごと「四十八手」の世界』をオススメしよう。1300円+税。文庫も高くなりにけりだが、春画展に出かける前に一冊だけ読むとすれば、ぼくはこれがいいデス。いわゆる「四十八手」などを紐解きながら、四十八手という術語が本来は、いま思い込まれている「体位の種類」ではなかったことなどなど、様々なウロコを目から落としてくれる。

なにより深みがあるのは、彼の春画の「読み解き」なのだが、これは春画そのものを見ないと説明できないので、買って読んでいただくとして、本誌では「はじめに」や「あとがき」を読んでいきたい。

▼と、その前に、白倉氏が何をした人なのか、浅野秀剛氏の解説を引用しておこう。重要箇所に【】


――――――――――
〈白倉敬彦さんは、一九四〇年十月九日、北海道岩見沢の農場主の三男として生まれた。幼い頃に結核を患い、長い闘病生活を経験している。早稲田大学文学部仏文科に入ったが中退。編集者になった。以後、多様な企画に携わったが、最も多かったのは現代美術系の出版である。

春画との出会いは、一九九〇年から刊行された『人間の美術』全十巻(学習研究社)の編集制作に参画したときであった。

【シリーズ中の浮世絵編で、春画の局部がトリミングされることに憤った白倉さんが、翌年に手がけたのが『浮世絵秘蔵名品集』全四巻(学習研究社)である。完全無修正の春画復刻の魁であり、一冊二十万円の高額商品にもかかわらず、累計一万部を超す大ヒットになった。】(中略)

春画研究史における白倉さんの最大の功績は、『浮世絵秘蔵名品集』の出版であろうと私は考えている。その出版によって、春画出版史と春画研究史が大転換を遂げたからである。その第一は、すべての春画が無修正で出版されるようになったこと、第二は、若い女性も含めて、美術史の研究者が春画の研究をするようになったこと、第三に、春画の展示に道を開いたこと、第四に、春画の売買が普通に行われるようになったことである。〉
――――――――――


▼つまり、白倉氏がいなければ永青文庫の「春画展」もなかったといえる。彼は21世紀に入って数多くの本を世に出したが、「執筆」よりも「編集」で偉大な仕事を成し遂げた人だった。『大英博物館 春画』では、光の当たらない「昭和の春画研究者」の歴史について筆を執っている。

さて、彼が2011年に書いた「増補新版あとがき」から、「春画ブーム」論を引用しよう。警視庁保安課や文藝春秋の方々に熟読玩味(じゅくどくがんみ)していただきたい論考である。適宜【】と改行


――――――――――
〈昨今は、春画ブームだといわれたりするが、春画ブームといわれるのは、必ずしも今回に限らない。私たちが、無修正の春画本を出し始めてから二十年が経過した。その間にもいくつかの波があった。今回のブームといわれるものもその一つに過ぎまいと思う。

ただ目新しいところは、新聞や週刊誌が積極的に春画を採り挙げ始めた点だろうか。その意味では、春画の持つ意味が一般的にも認知されつつあるのかな、と考えられなくもない。(中略)

私たちは、春画を研究することによって、こうした江戸時代の感性や認識を知ることができるし、いささか膠着(こうちゃく)した西欧流の性意識を相対化して見ることもできるのだ。春画は、その意味では格好の文化資料であるといってよかろう。そうして、このようにある程度自由に春画を観(み)、研究することができるようになったのも、たかだかこの二十年来のことである。

西欧では、性革命とか性解放とかいって、性に関する表現は一九六〇年代後半より急速に緩和された。その点では、日本はまだまだ遅れているといえようか。もちろん、江戸時代からも大きく退化しているのだ。

【陰毛が見えたの性器が見えたのと、何かと喧(やかま)しい昨今だが、それらは皆人間の身体の一部である。そんなことよりも、現代日本の性文化における暴力や幼児虐待の方がずっと深刻なのに、そちらを等閑視(とうかんし)していて何をいっているのかと、海外の学者たちからも不思議がられ、不信の眼(め)で見られている。】

春画の特徴の一つに性器の誇大表現があるが、これも「笑い」に関わりのあることだ。これを見て笑えるかどうかが春画鑑賞の成否にかかっている。要するに、どれだけ余裕をもって春画を眺め得るかということになろう。〉
――――――――――


▼「現代日本の性文化における暴力や幼児虐待の方がずっと深刻なのに、そちらを等閑視していて何をいっているのか」という一言には、とても重みがある。JKビジネス、着エロ、児童虐待、取り締まるべき犯罪は、春画の他に、無数にあるんじゃねえのか? それらの取り締まりに対して鈍重なのは、畢竟(ひっきょう)、取り締まる側やローメイカー(法律をつくる人)たる国会議員が、それらの犯罪者と、子ども軽視、女性軽視、男尊女卑の志向性、嗜好性において、幾許(いくばく)かの通底する何かがあるからではないか、とつい勘ぐってしまうネ。畢竟(ひっきょう)、「女子供は票にならない」からではなかろうか、と。

▼白倉氏の春画ブーム論を続けよう。


――――――――――
〈明治以前の我々は、もっと屈託なく性に対していたし、それを愉しんでいたではないか。まずそのことを理解すべきではないか、といった点で、春画の持つ意味がようやくクローズアップされつつある、というのが、昨今の春画ブームの底流にあるものと思われる。

事実、日本人の性意識も、西欧の性解放からの影響か、あるいはそれからの脱却かは判別できないが、明らかに変化しつつあり、ある意味では江戸時代の日本人の性意識と共通する面が多々見られるようになった。そして、そこに春画への親近感が生じているのかもしれない、と思うのだ。

たとえば、女性の年下男好み、優男(やさおとこ)=草食系男子への志向、あるいは性愛における女性の積極性などは、つとに我々が春画の中に見出して来た特色でもあった。そして、明治以降喧伝されて来た「恋愛神話」や「処女崇拝」も消えつつある。さらにいえば、一部でもてはやされている「ボーイズラブ」なども、江戸の娘たちが「若衆」に注ぐ眼差しとほとんど同一ではないかとさえ思える。

西欧流の性意識のタガが緩むと、そこに見えて来たものは、案外と日本人の性意識の基層部分かもしれない。しかし、それを容易に日本回帰などとは呼ぶまい。一度近代を経験した以上、いくら類似しているからといって、我々の意識がそれ以前の江戸時代のそれと同じはずがないからだ。〉
――――――――――


▼2015年現在における「春画の価値」を描いた文章で、これに優るものを寡聞(かぶん)にしてぼくは知らない。春画展に行けば、上記の鋭い指摘の数々を、すべて現物を通して確かめることができる。(長くなるのでやっぱり続く)


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竹山綴労


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