【編集方針】

 
「本が焼かれたら、灰を集めて内容を読みとらねばならない」(ジョージ・スタイナー「人間をまもる読書」)
 
「重要なのは、価値への反応と、価値を創造する能力と、価値を擁護する情熱とである。冷笑的傍観主義はよくて時間の浪費であり、悪ければ、個人と文明の双方に対して命取りともなりかねない危険な病気である」(ノーマン・カズンズ『ある編集者のオデッセイ』早川書房)
 

2013年9月18日水曜日

【オフノート】東郷和彦 37/ある外交官の一生

【PUBLICITY 1945】2013年9月18日(水)


【オフノート】東郷和彦37
〈ある外交官の一生〉


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in tuum ipsius inspice.

汝自身の胸を見よ。
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【「脱亜の物語」を考える】

【註】
▼今号は長い註から始めたい。東郷さんの話を聞きながら、ア
ジアの悲劇について考えていた。思い出す歴史上の人物がいる。

ナショナリズムについて旺盛な執筆を続けている松本健一さん
の著書『近代アジア精神史の試み』(2008年1月、岩波現
代文庫。単行本は1994年1月、中央公論新社から)のなか
に、「孤立する自覚者――ファン・タインザン」という章があ
る。

坪井善明著『近代ヴェトナム政治社会史』(東京大学出版会)
を基に、ファン・タインザン(潘清簡)というベトナムの外交
官の一生を紹介している。

ファン・タインザンとは、嗣徳帝時代の外交官である。嗣徳帝
が即位したのは1847年。アヘン戦争終結の5年後である(
因みにアヘン戦争が当時の日本人に与えた衝撃の大きさは、現
在の日本人の想像を絶する)。没したのは1883年。清仏戦
争の前年である。

この時代を一言で言えば、「フランスの帝国主義に襲われた時
代」だった。


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1859年12月2日、フランスはサイゴンを占領した。これ
に対して、ユエ宮廷は旧黎(レ)朝の末裔の反乱を鎮圧するた
めに全力を投入したかったので、フランスとスペインからのコ
ーチシナ東部三省の割譲要求をのんだ。

そうして、嗣徳帝は全権使節のファンに、早期に平和条約を締
結するように命令した。このため、かれは1862年、屈辱的
な第1次サイゴン条約を結ばざるをえなかった。(中略)

(その後)嗣徳帝はファンを全権使節の任から解いたものの、
コーチシナ問題の主席担当官に任命している。帝はファンの力
によって、手放したコーチシナ東部三省を奪回させようと密か
に決意していたのである。そのため、かれを主席代表とする使
節団をフランスに送り、仏皇帝との直接交渉を試みさせた。

92頁
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▼ファンは、条約修正の約束をとりつけて帰国する。彼は帰国
後、衝撃的だったヨーロッパ体験の日記を綴るとともに、ベト
ナムの近代化のために外交、貿易、財政、税制、軍事、通信、
教育など、多岐にわたって幾つもの提言を行なっている。

その内容を詳述する余裕はないが、松本さんが「ベトナムの渡
仏使節団についての記述をみると、幕末から明治にかけてのわ
が遣米、回欧使節団、あるいは不平等条約改正のための使節団
のそれをみているかのごとき錯覚にとらわれる」(93頁)、
「ベトナムのファンがフランスに渡って目覚めた近代=西洋文
明の意味に、(佐久間)象山や(横井)小楠はそれよりすこし
まえ日本にあって目覚めていた、といえるのかもしれない」(
98頁)と述べている箇所を紹介しておけばまず足りるだろう。

夷語(いご)を以って夷を制す。この簡潔なフレーズは、近代
アジアの宿命を、少なくともその大きな断面を切り取るキーワ
ードである。

▼しかし、「儒教的な精神によって政治を行なうことを目的と
している嗣徳帝やその周囲の官人たちは、この近代化計画に賛
成しなかった」(96頁)。無念だったろうと思う。以下はフ
ァンの嘆き。


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「大使としてフランスの都に遣された日以来、西洋文明の精髄
を目の前にし、恐れの混じった感嘆の念を禁じ得なかった。国
に戻ると、同胞たちに説いて、彼らを目覚めさせ、かくも長い
年月どっぷりとつかってきた無気力から脱け出させようとした。
なんたることか! 私が彼らを説得しようといかに努力しても、
誰一人私の言葉の真実を信じないのである」(坪井善明訳)

97頁
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▼フランス国内では、海外進出派が条約修正に猛反発。世は帝
国主義の全盛期である。フランス政府は新条約を破棄。186
5年にコーチシナ東部三省がフランスに併合される。

ファン・タインザンは、70歳を迎えようとしていた。


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フランスの植民地獲得熱はますます高まっていた。2年後の1
867年3月、仏領コーチシナ総督ラ・グランディエールは、
ヨーロッパの外交危機が落ち着き、コーチシナで雨季--河川
の水がふえ、砲艦の航行が可能になる--がはじまったならば、
西部三省をも併合しよう、という決定を下した。

1867年6月15日、ラ・グランディエール総督はサイゴン
を出発し、6月20日から27日にかけて、コーチシナ西部三
省を占領した。ファンが経略大臣となっていた永隆(ヴィンロ
ン)省をはじめとして、朱篤(チャオドック)省、河■(ハテ
イエン)省の城は、ほぼ無抵抗で門を開いたのである。

この無抵抗による開門を指令したのが、ファンだった。

100頁
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▼なぜファンは無血開城の命令を下したのか。


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ファンとすれば、フランスによる新条約の破棄のあたりから、
かれがヨーロッパ(フランス)近代文明に対して抱いていた畏
敬と希望とは、無惨にも打ち砕かれはじめていたろう。そして
いまや、フランスはその帝国主義的野心をあらわにしてコーチ
シナ西部三省の占領さえ行なっている。

これにベトナムが抵抗したところで、無駄な死者をふやし、民
族を勝ち目のない戦いに追いやるだけだ、というのが、このと
きのファンの苦渋にみちた判断であったろう。

無血開城は、とすれば、かれの絶望のはての選択であったにち
がいない。

だが、無血開城の一ヶ月あまりのち、1867年8月4日(嗣
徳20年7月5日)、ファン・タインザンは永隆省の城砦で断
食のはてに自死した。日本の明治維新の1年前、薩長の倒幕路
線が確立したころである。

そのファンの自死の場面を、レ・タイントゥオンは次のように
描いているという。


 断食17日目になっても潘清簡はまだ生きていた。死を早め
 るために、彼は一杯の茶碗にアヘンを用意し、北、即ちユエ
 の方向を見つめた。

 皇居の方向に五回叩頭礼をすると、あぐらをかいて坐った。
 それから毒をあおり、そして周囲にある、故郷を思い出させ
 る品々全てを見回し、祖国と君主を思って心を締めつけられ
 、涙を流した。……彼は丁卯の年(1867年)7月5日、
 71歳で息を引きとった。


ファンの悲劇は、ヨーロッパ近代の画期的な意味に目覚めたも
のがヨーロッパ帝国主義の力によって蹂躙されてゆく、という
アジア近代のイロニーの象徴である。

かれは、ヨーロッパ近代のなかでアジアとしての自己を洗いだ
した。そのことによって、アジアの近代化をすすめようとした。
その結果、いまだアジアを自覚せざるものたちから孤立する困
難な道を歩まざるをえなかった。無血開城のはての自死は、そ
の孤立の道すじを物語っている。

たとえば、かれは1862年の第1次サイゴン条約に調印した
ことによって、フランス占領軍にゲリラ戦をいどもうとしたコ
ーチシナ人たちから、「潘林売国、朝廷棄民」というスローガ
ンを投げつけられた。全権使節の潘清簡と林維■(ラムズィテ
ィエップ)は祖国を売った、というのである。

つまり、ファンは朝廷(皇帝および官人)からはその近代的改
革の道を拒まれ、抵抗の闘いをする民衆からは売国奴よばわり
されたのである。

ここに、かれの孤立の相はきわまったといっていい。(中略)

ファン・タインザンの自死から数えて15年後、フランスはベ
トナムへの全面的侵略を開始した。すなわち、1882年4月
25日、リヴィエール大佐の指揮する仏軍はハノイを占領した
のである。翌83年3月にはナムディンも占領した。

これに対して、ベトナムは清朝に応援をたのみ、劉永福の黒旗
軍が出動する。1883年5月19日、ベトナムのゲリラ軍は
この黒旗軍と協力して、ハノイ郊外で仏軍を破った。

その戦闘の過程で、リヴィエール大佐は戦死してしまった。フ
ランスの威信は傷つき、世論の激しい後押しによって、ジュー
ル・フェリー内閣は「フランス人の血の償い」を名目に、ベト
ナムへ大軍を派遣し大々的に侵略を展開するようになった。

100-103頁
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▼ここで使われている「血の償い」などという論法は、うんざ
りするほど繰り返され、いまも繰り返されている代物だ。国家
とは組織とは、根本的にそういう傾きがあるものなのだろう。

この後、ベトナムの歴史は「絶対に負けない」と言われていた
フランス軍に圧勝した名将ヴォー・グエン・ザップの闘争、そ
してアメリカとの酷烈な戦争へと続く。それはアジアの民衆が
「自由」とか「民主主義」という西洋の理念を掲げて西洋と闘
った"イロニー"の歴史でもあるのだが、それもまた別のお話で
ある。中公文庫から数年前にザップの本――その本を読んでベ
トナム国民は抵抗の勇気を保ったと言われる――が再刊されて
いるので、興味のある方はどうぞ。

▼じつは、ぼくが今回引用したかったのは、ここからだ。松本
さんは次のように指摘する。


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(ベトナムの)こういう情勢を目に入れながら、福沢諭吉(1
834-1901)は「安南(ベトナム)の風雨我日本に影響
する如何」(『時事新報』1883=明治16年6月9日号)
において、次のようにいっている。

 安南は遠方の国にして、其国が仏蘭西の為に滅さるるも又保
護さるるも、固より以って吾人の痛痒とするに足らず。

ここに一年半後の「脱亜論」における、福沢のアジアに対する
冷淡さと同じものをみることも可能だが、それ以上に福沢が強
調したかったのは、蒸気機関と電信を利用した西洋の侵略の圧
倒的な力であった。アジアの諸国はそのことに気づいていない、
ということが、福沢をしてアジアをついに謝絶すべき「悪友」
(「脱亜論」)とみなす発想をとらせたのである。(中略)

(福沢は別の論文で)西洋の文明力を利用した「侵略」がベト
ナムに及び、まだ朝鮮に及んでいないのは、ただたんに西洋か
ら「遠方」にあったにすぎない、と推理するのである。

福沢のその推理から、「脱亜論」まではわずかに一歩である。
すなわち、文明力を利用した西洋の「侵略」に危機をおぼえな
いアジアの国々とは手を切るしかない、と。


 されば今日の謀をなすに、わが国は隣国の開明を待って共に
 アジアを興すの猶予あるべからず、むしろその伍を脱して西
 洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法も隣
 国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人がこれに
 接するの風に従って処分すべきのみ。

 悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。われは心にお
 いてアジア東方の悪友を謝絶するものなり。


こういった「脱亜論」の思想は、渡辺俊一が「フランスのベト
ナム侵略と福沢諭吉」における仮説において述べていた、ベト
ナム問題それじたいから生みだされているというより、むしろ、
ベトナム問題をみずからの運命の手がかりと自覚しない朝鮮に
対する絶望から生みだされていた、と考えるべきであろう。

103-105頁
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東郷 「脱亜論」が発表されたのは1885年です。あの文章
について私は、アジアを脱する「苦しみの文章」であると思っ
ています。

その約10年後(1894年)に日清戦争、さらに10年後(
1904年)に日露戦争でしょう。「脱亜」によって育った「
果実」は、日露戦争によって完全に「刈り取った」わけです。

――辛うじて勝ちました。

東郷 それまで「脱亜」を唱えて突き進んできた。しかし、日
露戦争に勝ったことによって、国際的な政治状況はまるで変わ
ったわけです。ですからもうちょっと、あの時点でアジアに対
する態度がなんとかならなかったのか。結果的に、ならなかっ
た。残念でならない。

日本の勝者としての傲り、勝ったことによる傲慢は、あの時点
から始まったのだと思います。


(つづく)


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