【編集方針】

 
「本が焼かれたら、灰を集めて内容を読みとらねばならない」(ジョージ・スタイナー「人間をまもる読書」)
 
「重要なのは、価値への反応と、価値を創造する能力と、価値を擁護する情熱とである。冷笑的傍観主義はよくて時間の浪費であり、悪ければ、個人と文明の双方に対して命取りともなりかねない危険な病気である」(ノーマン・カズンズ『ある編集者のオデッセイ』早川書房)
 

2013年9月24日火曜日

【オフノート】東郷和彦 42止/歴史認識とアメリカ

【PUBLICITY 1950】2013年9月24日(火)


【オフノート】東郷和彦42
〈歴史認識とアメリカ〉
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festina lente.

ゆっくり急げ。
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【臥薪嘗胆の時代】

【註】
▼『戦後日本が失ったもの』のなかに、目を疑うようなエピソ
ードが登場する。


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日本に帰ってから、二〇〇八年、とあるオピニオン・リーダー
たちの出席した勉強会でのことである。話が戦後の歴史教育の
不在に及んだ時、NGOの活動家の方がこんな話を披露してく
れた。

時はまだ小泉旋風で、衆議院で自民党が三分の二の多数を擁す
る時代である。

「この前、若手のリーダーたちに歴史の現場を勉強してもらお
うと思って、硫黄島に小泉チルドレンの先生方を含めて見学ツ
アーをアレンジしたんです。見学に入る前に現地で若干の勉強
会を開いて、講師の先生が話を始めました。

どうも、聞いている方の反応がぴんときていないみたいなんで
すね。そうしたら、小泉チルドレンの方の一人が、質問された
んです。

『日本とアメリカは戦争したことあったんですか』」

一同騒然となったのは、言うまでもない。

191-192頁
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▼この事実を冒頭に置いて、最後のテーマ「歴史認識問題とア
メリカ」に入りたい。


東郷 新しい本(『歴史認識を問い直す』)では、日本発の新
しい哲学、日本がリードしうる新しい思想をめぐって、第7章
で書いています。

――これまでも一つの参照軸として、京都学派について言及さ
れていますね。


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世界の中における現下の日本について本当に考えるためには、
根と幹と枝を総合して考えねばならないと、最近私は考えるよ
うになった。根は、哲学と宗教と文明論である。幹は、国家目
標と公共である。枝は、そういう根と幹の上に展開されるべき
外交と対外政策である。

日本は近代化の過程の中で、太平洋戦争に入ろうとする時代、
一度だけ、哲学と国家論と外交を総合した思想をもった。いわ
ゆる京都学派と呼ばれる人たちの考えである。敗戦によってし
ばし、京都学派も、またそういう日本自身による普遍思想追求
の試みも姿を隠した。

日本は今、そういう総合的な思想を回復しなければならない。

「哲学・国家論・外交の総合を再び」
『環』51号「特集 内なるアメリカ」、藤原書店
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東郷 新しい、しかし今度は世界に通用する思想です。それは
人権に関するユニバーサル、グローバルな基本を取り入れたも
のでもある。

今の中国が抱えている巨大な問題は少数民族問題ですね。レイ
シャル・アロガンス(=人種的な傲慢)が問われている。日本
にもまた、かつて日本帝国の植民地主義で失敗した部分がある。
失敗の原因は、同じアジアの人々に対するレイシャル・アロガ
ンスでした。

日本の反省が真摯であればあるほど、中国に対してものを言わ
なければならないはずなんです。しかし、言わない。その原因
のひとつは、韓国に対しておこなった植民地主義に対する無反
省でしょう。だから、在特会の暴力的な言動についても、社会
全体としてはっきり発言できないような恐ろしい状況が生まれ
ていると思います。

私自身の言動については、著作を読んでいただければわかって
いただけると思いますが、韓国の方々に対してもアプローチで
きるし、中国の方々に対しても恥ずべきところなくアプローチ
できる立場と自認しています。

歴史認識について誠実に学べば、政治的責任に加え、必然的に、
道義的責任について考えさせられます。この道義的責任の視点
に基づいて、これまで日本から発せられた発言は少なすぎると
言わざるを得ない。

他国に対して「あれは、やりすぎだった」と言わない。言って
こそ、次の一歩を堂々と踏み出せる。言ってこそ、たとえばチ
ベットやウイグルに対して、「日本人だけが言えること」がで
てくる。

――道義的責任の有無が、その国の外交姿勢を深いところで規
定してくるんですね。

東郷 だからアメリカのリアリストたちから今、「日本のガラ
パゴス化した反中主義者たちが騒いでいるが、戦争について反
省もしていない日本が、なぜ中国のチベット問題についてもの
を言えるのか」と批判されているわけです。

歴史学者の家永三郎さんが、かつて「アウシュビッツ」と「ヒ
ロシマ」と「731」をジェノサイドとして論じておられまし
た。もっとも、規模や目的を考えると「731」は「民族の抹
殺」を目的にしたものではありませんから、同列に論じられな
いという批判もあるでしょう。しかし家永三郎さんは、左翼の
方ですが、信念をもった人だったからこそ、この三つを同列に
置いて論じることができた。私は彼の思想から学ぶべきところ
があると思います。

広島、長崎への原爆投下の問題は、現在のアメリカとの間では
解決しません。しかし、日本にとって最終的に解決すべき歴史
問題は、まさしくアメリカとの関係のなかにある。「東京裁判」
と「原爆投下」。この二つが日本の歴史認識問題の本丸である
と私は考えています。

【註】
▼『歴史と外交』には、歴史認識問題を解決するために必要な
「原則」について述べた次の一文がある。


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先の大戦にかかわる歴史認識の問題は、日本がいずれかの時点
で克服すべき課題である。しかし、そのためには、戦略と情報
が必要である。戦略とは、いちばん重要なのはなにかを識別、
選択し、他の重要なものとのあいだに優先順位をつけて、一つ
ひとつ時間差をつけて解決していくことである。また、情報と
は、相手の側がなにを考えているかを知悉することである。

253頁
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東郷 いまの日本は長い「臥薪嘗胆」の時代であるとも言えま
す。歴史認識におけるアメリカとの最終和解とは何なのか。私
はこの問題を忘れたことはありません。その解決のためには、
最低限の条件として、日本の展開する議論に、アジアの諸国が
共感をもっていただかなければならない。アジア諸国が「その
問題は、日本の言うとおりだ」となった時、アメリカの態度も
変わるでしょう。歴史認識問題は100年単位の戦いなのです。

これは『歴史と外交』でもある程度論じたのですが、発刊当初、
「アメリカに対する態度と中国、韓国に対する態度が違う」「
ダブルスタンダードじゃないか」という批判をいただきました。

しかし、日本がアジアで総スカンになっている現在のような状
況下で、アメリカに対してものを言ってもまったく迫力はない。
このポイントがわからなければ、アメリカとの間で歴史認識の
和解にたどり着けるはずがない、と私は考えています。

――ぼくは東郷さんの言論で面白いと思うのは、かたや「月刊
日本」、かたや岩波の「世界」や「週刊金曜日」に、東郷さん
の同じ趣旨の主張が載っている点です。これは東郷さんに限っ
た話ではなく、佐藤優さんなどその最たる例ですが、左右を弁
別する時代など、もはや昔の話です。東郷さんをはじめとする
何人かの言論はその証明になっていると思います。

東郷 書ける場所があるのはありがたいことです。京都の大学
で教え、静岡で県政のお手伝いをするなかで、「平成の三悪」
とでも言うべき「前例踏襲」「官僚主義」「既得権益」の強力
な壁にぶち当たることがあります。

日本が新しいビジョンをもって動き出すべき時、その創造的な
精神がこの三悪によって否定される。この悪弊を破らないとい
けないが、ものすごい勢いで押さえ込まれます。そういう事態
が至るところで起きている。

これからも、一歩ずつ進んでいくつもりです。

――長時間、ありがとうございました。


【編集後記】

▼2009年段階で、ぼくは「編集後記」として以下の文章を
書いていた。後半、箇条書きになっている部分があるが、文意
は通ると思うので、そのまま引用しておく。


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ぼくは東郷さんの話を聞きながら、ある時点で、彼の話のキー
ワードは「メモリーの息づいたロジック」だと考えた。そして
このキーワードを意識の片隅に置きながら、幾つかの質問をし
ていった。

しかし、ロジックが効用を発揮するためには、何らかの「枠組
み」が必要である。それを、国家と呼ぶ人もいる。社会と呼ぶ
人もいる。何と呼ぼうともメモリーは、メモリーに先立つ「世
の中」があって、初めて成り立つ。

しかし、たとえば「国家」という濾過装置を通すことによって
「世の中」が寸断された場合、メモリーもまた寸断され、なく
なる。そのとき「国益」も曖昧なものになり、「公」も曖昧な
ものになる。

この世の中そのものが――つまり、「メモリー」を紡ぎ出す土
台が、壊れてきているのであれば、その土台の上に「メモリー
の息づいたロジック」をつくることはできない。

▼必要なことは、「国益」の観点からとらえれば、

くにづくり=国境線を引き直す

もっといえば、【メモリーは変容する】。

この社会は、「新しいメモリー」を創り出す時を
迎えているのかも知れない。

国家が極大化し、社会が液状化している中で、
誰もが新しい「風景」を目の当たりにしている。

ぼくたちは今、わが山河は、たとえ空襲がなくとも焦土になる
のだ、という新たな現実――もしくは1945年へ至る歴史の
反復――に、直面している。
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▼この文章を書いた時点で、まさか2011年の3月11日に
東日本大震災が起こるなんて想像もしていなかったし、福島第
一原発がメルトダウンするなんて想像もしていなかった。文字
通り、空襲がなくても、ふるさとは焦土になった。ぼくは新し
い現実に直面した。

▼また、以下の文章を読んでいただきたい。


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安倍総理の歴史観には、小泉総理よりも明確な「日本の名誉を
守る」という視点があった。しかしながら、それが一方的で単
純な政策の形成としてあらわれれば、中国、韓国、ひいては米
国とのあいだで、不毛・無用・消耗でしかない歴史戦争を引き
起こす危険性があった。その結果は、おおむね予想がついた。
一九四五年に軍事的にすべてを失った経験の反復である。歴史
問題をめぐる新たな対中対米同時戦争によって、こんどはすべ
てを文化的に失う危険性があった。

だが、安倍内閣はその実際の政策において、そういう一方的な
自己正当化とはちがった政策をとりはじめた。就任早々の村山
談話の確認、「靖国神社に行くか行かないかを明言しない」と
いう政策、それらは、日本が戦後積み重ねてきた、反省と謝罪
の歴史をも肯定しつつ、過度の自己否定によって発生していた
漂流から脱却し、日本全体として向かっている中道への道が垣
間見えるように観ぜられたのである。

東郷和彦『歴史と外交』16頁
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▼この文章の載った東郷さんの『歴史と外交』が発刊されたの
は2008年12月だった。本連載の途中でもこの箇所を一度
引用している。

そして、2013年段階で、4年前のこの文章と似たような政
治の風景を目にしている事実に、ぼくは不思議な感覚を覚えて
いる。とくに「すべてを文化的に失う危険性があった」という
一言は、そのまま今の状況にあてはまっているのではないだろ
うか。

▼長いインタビューの中で「一九九一年の第一次湾岸戦争で日
本が陥った国際的孤立のトラウマ」(『歴史と外交』12頁)
について質問した際、東郷さんは戦後日本の歴史を顧みながら

「民族には寿命があるのかも知れません」

と言った。その一言が強く印象に残っている。

▼最後に、東郷さんの次の文章を引用して終わりたい。『歴史
と外交』の一文である。


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東郷茂徳は、鹿児島から車で約一時間ほどの距離にある日置郡
東市来町美山(現・日置市)という村の出身だった。

美山は、慶長三(一五九八)年、朝鮮戦役の最後に、半島から
撤退する豊臣秀吉軍に拉致された朝鮮の陶工たちが、居を構え
た場所である。この村で、朝鮮の陶工たちは、薩摩藩の独特の
保護と隔離の政策の下で、当時の世界の最先端技術による陶器
を製産、世に知られる薩摩焼となった。

茂徳の父寿勝はこの村の陶工のひとりであり、明治維新のとき、
旧制の朴を捨て、東郷姓を名乗った。茂徳は、明治十五(一八
八二)年、この村に生まれ、この村からやがて、東京帝国大学
で学び、外交官となった。

東京で育った私がこの村をはじめて訪れたのは、一九六八年の
春、大学を卒業し、外務省への入省を控えた春休みだった。鹿
児島市からバスに揺られて着いた美山は、緑のけぶる簡素な村
だった。

村の入り口に、「美山の子らよ、東郷先輩に続け」と書いた木
の柱が立っていた。そこから、茂徳の生家を訪ね、そこに住ん
でいた親戚の人たちと、しばし懇談してから、鹿児島に帰った
。おだやかな山並みに囲まれた静かな田園の風景と、「自分も
国のために、よい仕事をしたい」と思った記憶は、いまもなお
鮮明である。(中略)

最後に美山を訪れたのは、二〇〇一年、オランダに赴任する前
だった。オランダゆかりの場所が多い長崎を訪問したあと、鹿
児島を訪れた。マスコミは、イルクーツク交渉の失敗と外務省
のロシア政策をめぐる混乱を激しく批判している最中だった。

窯元の人たちを集めて席を設けてくれた沈寿官氏に、「こと志
と違い、日ロの大きな正常化は実現できなかったが、国のため
に、最善と信ずる仕事をしたと確信している」とお話しした。

茂徳から美山に連なる記憶、それは、四世紀をへだてて、自分
のなかに流れている朝鮮の血筋というものを、考えさせるもの
だった。

その問題が、自分にとって、どういう意味をもっているのかは、
まだ、私にはわからない。

109-110頁
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▼新しい「メモリー」は、そして「メモリーの息づいたロジッ
ク」は、誰でも創り始めることができる。

1945年生まれの東郷さんは、新しい扉の前に立っている。


(おわり)


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