【PUBLICITY 1939】2013年9月11日(水)
【オフノート】東郷和彦 31
歴史とは人間の努力
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【オフノート】東郷和彦31
〈歴史とは人間の努力〉
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不安は全体主義への客引きとなる。不安は嫌疑という方法によ
って促進される。全体主義においては非難または告発はほとん
どそれだけでもう有罪の判決を意味する。というのは、法律上
で明瞭に定義された諸行動ではなくて、かえってもろもろの意
向が攻撃の対象であるからである。かつての魔女裁判において
のごとく、あらゆる陳述、あらゆる振舞がその反対と全く同様
に、解釈によって、嫌疑の正当性の証拠となるのである。
その結末はすべての人に対するすべての人の不信である。全体
主義が勝利を収めた時には、全住民の人相が変わるのである。
すなわち、無意味な空虚な表情、言わば本質的なものについて
の沈黙、そういうものがあらゆる自然的な快活さを失ってあら
われるのである。
ヤスパース『真理・自由・平和』109頁
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東郷 統帥権について、先ほど言っておられた、「公」のため
と称して暴走する人たちについて、加えて申し上げると、厄介
なことに、「暴走」する人たちは昔も今も、「私たちはまさに
公の先頭に立って行動している」と自己認識しているわけです。
──本気なんですね。
東郷 そうなんです。本気で「公のためになる」と思っている。
私が関わってきた、北方領土の歴史と、外交と、景観論とを、
「公の欠如」というテーマでつなげて考えることができるので
はないかと、竹山さんと話をしていて思いました。
ただし、公の欠如と言った場合に、北方領土交渉の際の公の欠
如と、景観の問題における公の欠如と、ちょっと違った側面が
あると思います。
──同じものを違う角度から扱っているわけですね。
東郷 そうですね。その前提のうえで申し上げるのですが、北
方領土を返還するというテーマは、「公」の最たるものです。
しかし、返還を望む動きが暴走してしまうと、“四島一括返還
でなければ、何もやってはいけない”となる。そうなると、交
渉自体を、「袋小路」に追い込みかねない。
──事実、なりました。
東郷 これでは、「公」を追求するに、余りにも熱心なあまり、
「公の欠如」になっていったのではないでしょうか。
──『秘録』にも書いてありましたね。
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「四島一括」の実現を日本がどれだけ切望しているか、私自身
も骨身にしみて理解しているつもりである。
しかし、その願望に身をゆだねる余り、ロシアを相手に現実に
起こしうる変化の可能性を把握できなくなってもよいのか。
自分の信ずる意見の正しさに自縛され、相手の出方を見誤るこ
とにより、最終的な北方領土問題の解決を見失ったら、誰に対
して責任をとるのか。
368頁
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東郷 そうです。 「公の欠如」が、他のアプローチを壊す。
それは一種の暴走にしか見えません。その結果、どうなったか。
暴走の結果は、領土交渉で、手痛い敗北を喫した。
──これまで一貫しておっしゃっている、北方領土の返還を成
し遂げられなかった「道義的敗北」と、その「暴走」との関係
は。
東郷 何回もお話してきているように、外交交渉としては、二
〇〇一年春、ロシア側は重い腰をあげて、歯舞・色丹の引渡し
に加えて、国後・択捉の主権の問題を議論しようかというとこ
ろに、到達した。ところが、日本の国内で、「四島一括でなけ
ればならない、四島一括以外の考えを言う人間は“非国民”だ」
そういう議論が一部に出てきた。この人たちは、「四島一括」
と、万が一にも違った形の結果になるかもしれない、交渉方
針をつぶすべきだと確信していた。
結果として、国内政局とからめて、交渉の進捗を止めた。戦後
初めて、国後・択捉について、実質的な話し合いを始めようと
した時に、交渉を崩壊させたことを、「暴走」と言わずして、
なんと言うのでしょう。
ロシア側から見れば、ようやく真剣な話し合いに応じようとし
たときに、日本側から、交渉を閉ざしていった。領土交渉は、
日本側が、攻めている交渉です。その日本側が、「いざ本番」
という時に、兵を引いた。これを「道義的敗北」と言わずして
、なんと言うのでしょう。
四島一括で頑張る“しかない”という考え方。それは、たとえ
ば関東軍が盧溝橋事件の後、北支に展開する“しかない”、と
暴走した流れに通ずる。
満洲事変を起こした時に──あれは明らかに謀略でやったわけ
でしょう──暴走しているわけです。彼ら関東軍の執着心は、
「四島一括しかない。これがベストだ」と訴えた人たちの執着
心と似た部分があります。
難しいのは、いずれの場合も、彼等のその「純粋さ」を疑う理
由はないと思うことです。いずれの場合も、「自分は公のため
に、最善を尽くしている」と、確信していた。
──その「純粋さ」が怖い。
東郷 その通りですね。満州事変は、関東軍の権力の強化と結
びついたわけですが、関東軍は「関東軍の強化イコール日本に
とって最善の選択だ」と信じ込んでいたわけでしょう。結果的
には、その思い込み、信じ込みが暴走して、すべてを失ってい
く遠因になった。
──すべてが私利私欲だったと決めつけるわけにいかないです
ね。
東郷 そうです。
──しかし、公のためと言いながら、まったく公のためになら
ない。
東郷 結果的に。要するに、なにが公かという判断は、ことほ
どさように難しい、ということになってくるわけですね。
──判断基準が何なのか、難しいです。公と称して公を破壊し
てしまう動きは、1945年に向けてもあったし、1945年
からもある。これからもあるでしょう。
そして、そういう動きに対して「そうではないだろう」「それ
は道義の敗北に繋がるだろう」と危惧し、身を挺して踏ん張っ
た人も、昔も東郷茂徳外相のようにいたし、今もいるでしょう。
両方を認識しなければ判断を誤りますね。
東郷 はい。私は、そう思います。
■註
▼公の基準というものは、「社会」と呼ばれるつながりが生ま
れて、その“後に”出来上がるものだ。社会ができる“前から”
先験的にあるものではない。社会が変わる以上、公も変わる。
今の日本社会は、大きな変化の中にあるから、公の基準そのも
のも変容期に入っているのかも知れない。
各個の「社会」、今回の文脈でいえば「社稷」、砕いた言葉で
いえば“生活感情が触れ合う場”を再生する動きとともに、公
の感覚は【新しいかたちを纏って】再生するだろう。
「公」の判断基準というものは、予(あらかじ)めつくること
ができないし、つくる必要もない。「公」の作り置きは危険だ。
――違う角度、ということで思い出しましたが、「公」の欠如
という観点で、一つ申し上げておきたいお話があるのですが。
東郷 どうぞ。
――亡くなった筑紫哲也さんが、かつて「週刊金曜日」で書い
ておられたんですが、市町村の大合併にともない、自治体の名
前がどんどん消えていって、役所の建物も合併しましたね。そ
のとき、合併される小さな自治体では、「郷土史」など地方の
歴史資料が破棄されたそうなんです。
東郷 えっ!(しばし絶句)。なんでそんなことを……。
──保存する場所がないからでしょうかねえ。本当だとすれば、
まったくひどい話です。
■註
▼筑紫さんのコラム「自我作古」(第388回)が載った「週
刊金曜日」の2006年2月24日号(595号)。
「「一望の荒野」進行中」
と題されたコラムの冒頭。
「そのいちいちはほとんど全国ニュースにはならない。あまり
にも多すぎるからだ。だが、本当は大きな変動がこの列島中で
起きている。市町村合併のことである。抵抗空しく、対立を重
ねながらも、次々と「新市」が誕生し、長らく馴染み深かった
町村名が消えていく。そうやって生まれた新自治体の名は耳慣
れないだけでなく空疎なものが多い」。
そして、大分県内でユニークな活動をしていたが、自治体とし
ての姿を消された例を幾つか挙げ(大山町、湯布院町や中津江
村)、後半は次のように続く。適宜▼。
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▼「失われた10年」どころか、もっと長かった、いや未だ終
わったとも言えないこの国の低迷、漂流のなかで、おもしろく、
新たな試みを始めたのは、ほとんどが小さな所である。
大きな自治体に呑み込まれて、そういう独自性が維持できるか、
そもそもこれだけ広域化した自治体がこれから何ができるか。
「官僚制の原則」から見ても、過去の実績に照らしても、きわ
めて疑問である。
前例がないものは認めない「前例主義」、例外を認めたがらず、
整合性にこだわる整合性主義、責任を回避したがる事なかれ主
義などが、何かに挑戦することを阻害し、困難にしてきた。
▼それどころか、今回の大合併が、本音は国から地方への出費
を削ること、さらには自民党が地方から都市へ支持基盤をシフ
トすることを動機とした、理念を欠くものだけに、住民サービ
スの低下はほとんど必然的である。
現に、旧町村の職員を新市の中心に配置換えする、「地域での
中央集権化」が始まっている。住民になるべく近い距離に居て
こそ、福祉などはきめ細かく手が届くものだが、逆行が進んで
いるのだ。
▼それより何より気になるのは、「合併」が正義となったこと
で小さな地域の意味が否定されて、元気を失くしている所が多
いことだ。
このままでは、日本中で地域社会が消滅に向かい、この国は人
と人とのつながりという点では「一望の荒野」と化す、と私は
言い続けてきたのだが、その私でも予想しなかったことが、合
併とともに進行している。
形はそれぞれちがうが、各市町村は公文書館に近い機能を持っ
ている。郷土史、郷土文化にかかわるものもふくまれているの
だが、合併、編入する自治体が次々とそれを捨て始めたという。
地名どころか歴史も文化も消えるのだ。
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▼この動きは今も進行中だろう。
東郷 市町村が合併するのであれば、「わが郷土の歴史を残す」
ということが、役人としての最後のご奉公じゃないですか。な
ぜそんなことを……。まったく驚きですね。
――この問題は、先におっしゃった日本の「根」、ルーツとし
ての「自然」と「伝統」の話にも直結すると思うんですが、い
かがでしょう。
東郷 それは大変に重要な問題です。まさに直結していると思
います。
私は、歴史を定義するならば、歴史とは人間の努力である、と
考えています。
歴史文書を廃棄するという行為には、“結果”だけでいい、そ
れまでの努力の“経緯”は不必要である、として捨て去ってし
まう、考えの軽さ、浅さ、薄さが露わになっていると感じます。
歴史を失った民族の軽さだと言ってもいい。これは「風景」を
壊す感覚と同根の問題だと思います。
月並みな表現かも知れませんが、古いものの重み、知恵という
ものがあります。
――外務省の文書廃棄の問題が、朝日新聞の報道で明らかにな
りましたね。
東郷 ええ。
――あの問題も、同根だと思いますか。
東郷 (しばらく黙って)そう思います。
■註
▼東郷さんは、2009年8月15日付朝日新聞に手記を発表
し、同年の「文藝春秋」10月号に、その内容を詳述した文章
を発表した。その筆致ににじむ真摯な姿勢に触れてぼくは
本が焼かれたら、灰を集めて、
その内容を読み取らねばならない。
というG・スタイナーの言葉(「人間を守る読書」)を思い出
した。
(つづく)
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