【編集方針】

 
「本が焼かれたら、灰を集めて内容を読みとらねばならない」(ジョージ・スタイナー「人間をまもる読書」)
 
「重要なのは、価値への反応と、価値を創造する能力と、価値を擁護する情熱とである。冷笑的傍観主義はよくて時間の浪費であり、悪ければ、個人と文明の双方に対して命取りともなりかねない危険な病気である」(ノーマン・カズンズ『ある編集者のオデッセイ』早川書房)
 

2013年9月11日水曜日

【オフノート】東郷和彦 31/歴史とは人間の努力

【PUBLICITY 1939】2013年9月11日(水)

【オフノート】東郷和彦 31
歴史とは人間の努力


▼2020年の東京五輪開催が決まったね。

「新種目に『水かき』を要望します。」 東京電力



【オフノート】東郷和彦31
〈歴史とは人間の努力〉


――――――――――――――――――――――――――――
不安は全体主義への客引きとなる。不安は嫌疑という方法によ
って促進される。全体主義においては非難または告発はほとん
どそれだけでもう有罪の判決を意味する。というのは、法律上
で明瞭に定義された諸行動ではなくて、かえってもろもろの意
向が攻撃の対象であるからである。かつての魔女裁判において
のごとく、あらゆる陳述、あらゆる振舞がその反対と全く同様
に、解釈によって、嫌疑の正当性の証拠となるのである。

その結末はすべての人に対するすべての人の不信である。全体
主義が勝利を収めた時には、全住民の人相が変わるのである。
すなわち、無意味な空虚な表情、言わば本質的なものについて
の沈黙、そういうものがあらゆる自然的な快活さを失ってあら
われるのである。

ヤスパース『真理・自由・平和』109頁
――――――――――――――――――――――――――――


東郷 統帥権について、先ほど言っておられた、「公」のため
と称して暴走する人たちについて、加えて申し上げると、厄介
なことに、「暴走」する人たちは昔も今も、「私たちはまさに
公の先頭に立って行動している」と自己認識しているわけです。

──本気なんですね。

東郷 そうなんです。本気で「公のためになる」と思っている。
私が関わってきた、北方領土の歴史と、外交と、景観論とを、
「公の欠如」というテーマでつなげて考えることができるので
はないかと、竹山さんと話をしていて思いました。

ただし、公の欠如と言った場合に、北方領土交渉の際の公の欠
如と、景観の問題における公の欠如と、ちょっと違った側面が
あると思います。

──同じものを違う角度から扱っているわけですね。

東郷 そうですね。その前提のうえで申し上げるのですが、北
方領土を返還するというテーマは、「公」の最たるものです。
しかし、返還を望む動きが暴走してしまうと、“四島一括返還
でなければ、何もやってはいけない”となる。そうなると、交
渉自体を、「袋小路」に追い込みかねない。

──事実、なりました。

東郷 これでは、「公」を追求するに、余りにも熱心なあまり、
「公の欠如」になっていったのではないでしょうか。

──『秘録』にも書いてありましたね。


――――――――――――――――――――――――――――
「四島一括」の実現を日本がどれだけ切望しているか、私自身
も骨身にしみて理解しているつもりである。

しかし、その願望に身をゆだねる余り、ロシアを相手に現実に
起こしうる変化の可能性を把握できなくなってもよいのか。

自分の信ずる意見の正しさに自縛され、相手の出方を見誤るこ
とにより、最終的な北方領土問題の解決を見失ったら、誰に対
して責任をとるのか。

368頁
――――――――――――――――――――――――――――


東郷 そうです。 「公の欠如」が、他のアプローチを壊す。
それは一種の暴走にしか見えません。その結果、どうなったか。
暴走の結果は、領土交渉で、手痛い敗北を喫した。

──これまで一貫しておっしゃっている、北方領土の返還を成
し遂げられなかった「道義的敗北」と、その「暴走」との関係
は。

東郷 何回もお話してきているように、外交交渉としては、二
〇〇一年春、ロシア側は重い腰をあげて、歯舞・色丹の引渡し
に加えて、国後・択捉の主権の問題を議論しようかというとこ
ろに、到達した。ところが、日本の国内で、「四島一括でなけ
ればならない、四島一括以外の考えを言う人間は“非国民”だ」
そういう議論が一部に出てきた。この人たちは、「四島一括」
と、万が一にも違った形の結果になるかもしれない、交渉方
針をつぶすべきだと確信していた。

結果として、国内政局とからめて、交渉の進捗を止めた。戦後
初めて、国後・択捉について、実質的な話し合いを始めようと
した時に、交渉を崩壊させたことを、「暴走」と言わずして、
なんと言うのでしょう。

ロシア側から見れば、ようやく真剣な話し合いに応じようとし
たときに、日本側から、交渉を閉ざしていった。領土交渉は、
日本側が、攻めている交渉です。その日本側が、「いざ本番」
という時に、兵を引いた。これを「道義的敗北」と言わずして
、なんと言うのでしょう。

四島一括で頑張る“しかない”という考え方。それは、たとえ
ば関東軍が盧溝橋事件の後、北支に展開する“しかない”、と
暴走した流れに通ずる。

満洲事変を起こした時に──あれは明らかに謀略でやったわけ
でしょう──暴走しているわけです。彼ら関東軍の執着心は、
「四島一括しかない。これがベストだ」と訴えた人たちの執着
心と似た部分があります。

難しいのは、いずれの場合も、彼等のその「純粋さ」を疑う理
由はないと思うことです。いずれの場合も、「自分は公のため
に、最善を尽くしている」と、確信していた。

──その「純粋さ」が怖い。

東郷 その通りですね。満州事変は、関東軍の権力の強化と結
びついたわけですが、関東軍は「関東軍の強化イコール日本に
とって最善の選択だ」と信じ込んでいたわけでしょう。結果的
には、その思い込み、信じ込みが暴走して、すべてを失ってい
く遠因になった。

──すべてが私利私欲だったと決めつけるわけにいかないです
ね。

東郷 そうです。

──しかし、公のためと言いながら、まったく公のためになら
ない。

東郷 結果的に。要するに、なにが公かという判断は、ことほ
どさように難しい、ということになってくるわけですね。

──判断基準が何なのか、難しいです。公と称して公を破壊し
てしまう動きは、1945年に向けてもあったし、1945年
からもある。これからもあるでしょう。

そして、そういう動きに対して「そうではないだろう」「それ
は道義の敗北に繋がるだろう」と危惧し、身を挺して踏ん張っ
た人も、昔も東郷茂徳外相のようにいたし、今もいるでしょう。
両方を認識しなければ判断を誤りますね。

東郷 はい。私は、そう思います。


■註
▼公の基準というものは、「社会」と呼ばれるつながりが生ま
れて、その“後に”出来上がるものだ。社会ができる“前から”
先験的にあるものではない。社会が変わる以上、公も変わる。
今の日本社会は、大きな変化の中にあるから、公の基準そのも
のも変容期に入っているのかも知れない。

各個の「社会」、今回の文脈でいえば「社稷」、砕いた言葉で
いえば“生活感情が触れ合う場”を再生する動きとともに、公
の感覚は【新しいかたちを纏って】再生するだろう。

「公」の判断基準というものは、予(あらかじ)めつくること
ができないし、つくる必要もない。「公」の作り置きは危険だ。


――違う角度、ということで思い出しましたが、「公」の欠如
という観点で、一つ申し上げておきたいお話があるのですが。

東郷 どうぞ。

――亡くなった筑紫哲也さんが、かつて「週刊金曜日」で書い
ておられたんですが、市町村の大合併にともない、自治体の名
前がどんどん消えていって、役所の建物も合併しましたね。そ
のとき、合併される小さな自治体では、「郷土史」など地方の
歴史資料が破棄されたそうなんです。

東郷 えっ!(しばし絶句)。なんでそんなことを……。

──保存する場所がないからでしょうかねえ。本当だとすれば、
まったくひどい話です。


■註
▼筑紫さんのコラム「自我作古」(第388回)が載った「週
刊金曜日」の2006年2月24日号(595号)。

「「一望の荒野」進行中」

と題されたコラムの冒頭。

「そのいちいちはほとんど全国ニュースにはならない。あまり
にも多すぎるからだ。だが、本当は大きな変動がこの列島中で
起きている。市町村合併のことである。抵抗空しく、対立を重
ねながらも、次々と「新市」が誕生し、長らく馴染み深かった
町村名が消えていく。そうやって生まれた新自治体の名は耳慣
れないだけでなく空疎なものが多い」。

そして、大分県内でユニークな活動をしていたが、自治体とし
ての姿を消された例を幾つか挙げ(大山町、湯布院町や中津江
村)、後半は次のように続く。適宜▼。


――――――――――――――――――――――――――――
▼「失われた10年」どころか、もっと長かった、いや未だ終
わったとも言えないこの国の低迷、漂流のなかで、おもしろく、
新たな試みを始めたのは、ほとんどが小さな所である。

大きな自治体に呑み込まれて、そういう独自性が維持できるか、
そもそもこれだけ広域化した自治体がこれから何ができるか。
「官僚制の原則」から見ても、過去の実績に照らしても、きわ
めて疑問である。

前例がないものは認めない「前例主義」、例外を認めたがらず、
整合性にこだわる整合性主義、責任を回避したがる事なかれ主
義などが、何かに挑戦することを阻害し、困難にしてきた。

▼それどころか、今回の大合併が、本音は国から地方への出費
を削ること、さらには自民党が地方から都市へ支持基盤をシフ
トすることを動機とした、理念を欠くものだけに、住民サービ
スの低下はほとんど必然的である。

現に、旧町村の職員を新市の中心に配置換えする、「地域での
中央集権化」が始まっている。住民になるべく近い距離に居て
こそ、福祉などはきめ細かく手が届くものだが、逆行が進んで
いるのだ。

▼それより何より気になるのは、「合併」が正義となったこと
で小さな地域の意味が否定されて、元気を失くしている所が多
いことだ。

このままでは、日本中で地域社会が消滅に向かい、この国は人
と人とのつながりという点では「一望の荒野」と化す、と私は
言い続けてきたのだが、その私でも予想しなかったことが、合
併とともに進行している。

形はそれぞれちがうが、各市町村は公文書館に近い機能を持っ
ている。郷土史、郷土文化にかかわるものもふくまれているの
だが、合併、編入する自治体が次々とそれを捨て始めたという。

地名どころか歴史も文化も消えるのだ。
――――――――――――――――――――――――――――


▼この動きは今も進行中だろう。


東郷 市町村が合併するのであれば、「わが郷土の歴史を残す」
ということが、役人としての最後のご奉公じゃないですか。な
ぜそんなことを……。まったく驚きですね。

――この問題は、先におっしゃった日本の「根」、ルーツとし
ての「自然」と「伝統」の話にも直結すると思うんですが、い
かがでしょう。

東郷 それは大変に重要な問題です。まさに直結していると思
います。

私は、歴史を定義するならば、歴史とは人間の努力である、と
考えています。

歴史文書を廃棄するという行為には、“結果”だけでいい、そ
れまでの努力の“経緯”は不必要である、として捨て去ってし
まう、考えの軽さ、浅さ、薄さが露わになっていると感じます。
歴史を失った民族の軽さだと言ってもいい。これは「風景」を
壊す感覚と同根の問題だと思います。

月並みな表現かも知れませんが、古いものの重み、知恵という
ものがあります。

――外務省の文書廃棄の問題が、朝日新聞の報道で明らかにな
りましたね。

東郷 ええ。

――あの問題も、同根だと思いますか。

東郷 (しばらく黙って)そう思います。


■註
▼東郷さんは、2009年8月15日付朝日新聞に手記を発表
し、同年の「文藝春秋」10月号に、その内容を詳述した文章
を発表した。その筆致ににじむ真摯な姿勢に触れてぼくは

本が焼かれたら、灰を集めて、
その内容を読み取らねばならない。

というG・スタイナーの言葉(「人間を守る読書」)を思い出
した。


(つづく)


(読者登録数)
・Eマガジン 4708部
・まぐまぐ 79部
・メルマ! 66部
・AMDS 22部