【編集方針】

 
「本が焼かれたら、灰を集めて内容を読みとらねばならない」(ジョージ・スタイナー「人間をまもる読書」)
 
「重要なのは、価値への反応と、価値を創造する能力と、価値を擁護する情熱とである。冷笑的傍観主義はよくて時間の浪費であり、悪ければ、個人と文明の双方に対して命取りともなりかねない危険な病気である」(ノーマン・カズンズ『ある編集者のオデッセイ』早川書房)
 

2013年9月16日月曜日

【オフノート】東郷和彦 35/台形史観のおさらい その1

【PUBLICITY 1943】2013年9月16日(月)


【オフノート】東郷和彦 35
〈台形史観のおさらい その1〉


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愛国ということは、自分が自分の国を真に愛していれば、他の
国の人々がその国をどんなに愛しているかがわかるということ
です。つまり、愛国主義こそが国際主義に連環していくのです。
愛国主義が排外につながるのは、非常にオカシイ。だが、われ
われの国はかつてそれをやってきた。

竹中労『右翼との対話』50頁、現代評論社
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【「アジアの物語」を考える】

――東郷さん、日本の歴史認識問題の基礎となる歴史観につい
ておさらいしておきたいと思います。尖閣問題の現状を正確に
理解するためにも避けることはできません。

東郷 尖閣に関する議論は、国際法上の正当性の如何を問わず、
中国が言っているところの「清が壊滅するときに日本が奪った」
という側面はあります。

――講談社現代新書の『歴史と外交』に書かれましたね。

東郷 はい。そしてこれにはもう一つ、「竹島との類似」を指
摘しておかねばなりません。日本は1905年に竹島を領有し
て、1910年に韓国併合をおこなった。いっぽう尖閣問題に
ついては、1895年の1月に尖閣を領有して、同じ年の下関
条約で台湾の割譲が決まった。この二つはパラレルになってい
ます。

「台湾の割譲」は、いま中国で「日本の侵略の原点」に位置づ
けられている。対して日本は「坂の上の雲」の歴史観です。つ
まり「日露戦争までは、日本はディフェンシブだった。帝国主
義と戦っていた」という認識です。

そもそもの「出発点はどこか」に、彼我の認識の違いがある。
しかし、この認識の違いは、今までは必ずしもメジャー・イシ
ュー(=主要な問題点)ではなかったんですよ。

――その認識の違いについても、『歴史と外交』で「台形史観」
の矛盾の一つとして、書いておられましたね。

東郷 そうです。必ずしも新しい話ではありません。しかしメ
ジャーな問題でもなかった。メジャー・イシューはあくまでも
満州事変、なかんずく1937年の盧溝橋事件以降についてだ
った。しかし今、対立の「原点」はといえば、台湾併合であり、
日清戦争です。少なくとも現在の中国人にとっては、そうなっ
ている。

――歴史認識をめぐる最大の争点が、「1895年の台湾併合」
に移行した、ということですか。

東郷 それも、ものすごい勢いでもっていかれてしまった。「
私たちはそうした歴史の流れの中にいる」ということを心得な
ければなりません。


【註】
▼ここからは長い註になる。東郷さんの歴史観は、基本的に『
歴史と外交』(講談社現代新書)で言及されている「台形史観
」である。


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明治維新以降、昭和の戦争の終結までの七十七年間は、比喩的
にいえば、台形をなしている。明治維新から、日露戦争の終了
までが、台形の登りの局面である。

西欧帝国主義列強に囲まれた日本は、アジアのなかでほぼ唯一、
植民地支配に屈することなく、富国強兵・脱亜入欧・和魂洋才
をもって近代化をなしとげた。日清戦争でアジアの超大国清を
破り台湾を獲得、日英同盟を背景として欧米列強の雄ロシアを
破り、中国・韓国の改革者を含め、アジアと世界の被植民地や
世界の列強に深い感銘を与えた。

日露戦争の終了から満洲事変の開始までが、台形の平らな部分
である。日本は時代の流れに乗り、近代化を果たした強国とし
て、欧米列強に並ぶ帝国主義国となり、韓国を併合し、第一次
世界大戦を"天佑"として、中国へと勢力圏を着々と拡大した。
同時に、ワシントン会議では、米国の主導する中国の門戸開放
に合意し、国内における大正デモクラシーと相俟って、国際協
調外交を展開した。

満州事変から太平洋戦争の終了までが、台形の下りの部分であ
る。世界大恐慌の中、満洲をわが自給自足圏の核とする政策を
とり、やがて、中国北部から南部への軍事進出に発展、独伊と
の三国同盟を国際場裡での後ろ盾とし、ナチス・ドイツの欧州
戦争と対ソ戦争の初戦の大勝利のなか、北部ついで南部仏印へ
の進出にいたった。

当時の日本の国家主義が、軍国主義的、帝国主義的、愛国主義
的傾向をもっており、それが中国の門戸開放を唱える米国の政
策と衝突したわけであるが、それは、畢竟帝国主義間の争いで
あり、米国の石油禁輸を含む経済制裁に直面し、和平交渉は実
を結ばず、対米開戦にいたり、けっきょく完膚なきまでの敗戦
にいたったわけである。

48-49頁
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▼しかし、この「台形史観」をもって日本を出て「アジア」に
身を置いたとき、亀裂が走っていることに気づく。


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(この台形史観は)司馬遼太郎史観といってよいかもしれない。
多くの日本人が共有している史観だと思うし、諸外国の日本史
観としても、おおむね、共有されていると思う。日本が下降し
はじめる点を、一九三一年の満洲事変以降にとらえ、少なくと
も、一九三七年の日中戦争(当時の日本側の呼称としては支那
事変)以降を確実に含めているので、この見かたは、中国とは、
一致する点がある。

だが、日露戦争の勝利の結果、完全な日本の勢力圏に入れられ、
その五年後に、独立国としては消滅した韓国で、どうして、日
本と共通の歴史観をもつことができようか。「台形」の平らな
辺と下りの辺についての韓国の見かたは、基本的に、抵抗史観
、すなわち、日本に対する抵抗の歴史を描くことになる。

にもかかわらず、そうしたお互いのちがいを前提として、相手
の立場に立ったら歴史はどう見えるかということを学ぶこと、
それは、できる。

142頁
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▼この亀裂を象徴する、印象的なエピソードが『歴史と外交』
に紹介されている。以下は、ある中国人壮年とのやりとりであ
る。


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いまの中国人にとって台湾問題がいかに重大な問題かというこ
とを私が骨身にしみて認識したのは、二〇〇六年夏、プリンス
トンを出発し、秋から台湾に移る準備をしていたときだった。

プリンストン大学は、アメリカ東海岸の交通の要地にあり、ワ
シントン、ニューヨーク、ボストンなどから著名な学者や政治
家が通っていき、しばしば、その人たちの講演会が催されてい
た。

私もできるだけその講演会に出席するようにしていたが、そこ
で、たびたび顔をあわせる壮年の中国人がいた。そのうちに、
言葉を交わすようになり、彼が、プリンストンの近郊の会社で
仕事をしてた科学者で、いまは引退し、悠々自適のなかで知的
好奇心をいろいろなかたちで満たしているということを知った。

「靖国問題」についての私の、プリンストン最終講義も聴きに
きてくれ、そのあと、お別れの昼飯を食べている際に、講演と
同じテーマで、FEER誌に論文を書いたと話したら、非常に
関心をよせてくれ、講演と同じなら、ぜひ中国語に訳させてく
れないか、中国のしかるべき出版社で刊行したいと言ってくれ
たのである。

たいへんありがたい話なので、快諾し、原稿を送り、それから
約一ヶ月がたったところで、彼から、突然メールが来たのであ
る。

「あなたが、あのような軍国主義者とは知らなかったので、く
だんの原稿の翻訳はやめることにしたい」

という内容だった。

正直に言って、これには驚いた。彼の翻訳がストップしてしま
うのはやむをえないとしても、この原稿のどこで自分が軍国主
義者にされたのかは、いささか気になった。

こちらの返信のなかで発したその質問には、本人からの返事が
なかったので、同僚教授で彼を知っている人に頼んで、事情を
聞いてもらった。

「あなたの記事のなかに、明治以降の日本歴史にふれ、日露戦
争の終了までは、日本は、欧米帝国主義列強から植民地化され
ないように戦ってきた、日露戦争後、日本自身は、帝国主義の
傾向をとりはじめたという趣旨のところがあるでしょう。そこ
ですよ。では、台湾はどうなるのですか。日清戦争で日本が台
湾を併合したのは、中国に対する帝国主義の第一歩ではないで
すか。ということで、翻訳をやる気がなくなったということら
しいですよ」

私の"台形の論理"が、韓国のみならず、中国との関係でも、破
綻していたのである。

168-170頁
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▼さらに東郷さんは、自身の強烈な体験談を紹介している。


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いまだに、ひとりの女学生の声が聞こえてくる。

「トーゴー先生、先生は、天安門事件以降の中国の学校教育の
話をされました。たしかに、学校で教えられたこともあります。
でも、私が、日本の残虐さの話を聞いたのは、私の祖母からで
す。

祖母は、東北の小さな村に住んでいました。日本軍がその村に
入ってくる前に、村には、四百戸の家がありました。日本軍が
去ったときには、四十戸しか残っていませんでした。村の人た
ちも、家といっしょに殺されたのです。この話を、私は祖母か
ら、毎晩、毎晩、聞いて育ちました」

そして、彼女は付け加えた。

「プリンストンに来るとき、私の両親は、私が、アメリカでど
んなボーイ・フレンドをつくるか心配していました。ただ、ひ
とつだけ、はっきり言われました。どんなことがあっても、日
本人のボーイ・フレンドだけはつくってはいけないって。自分
たちは、絶対に許さないって」

彼女がそう発言をしたとき、数ヵ所に固まって座っていた女子
学生たちが、いっせいに、中国語で、なにか言いはじめた。

私は、隣に座って、進行役を務めていた、ウッドロー・ウィル
ソン・スクールの留学生に聞いた。

「なんて、言ってるの?」

「みんな、言ってるんです。私たちも、まったく同じことを言
われてきたって」

198-200頁
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(つづく)


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