【PUBLICITY 1938】2013年9月10日(火)
▼東京は、ぐっと涼しいです。30度でも涼しく感じる。なに
しろ39度とかになりましたからナ。やっぱりニッポンはちょ
っとずつ亜熱帯化してるのかナ?
【オフノート】東郷和彦 30
〈個人主義と全体主義の間で〉
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全体主義は、共産主義でもなく、ファシズムでもなく、ナチズ
ムでもなくて、あらゆるかかる形態の中に登場したのである。
全体主義は一般に集団秩序における人類の将来の恐るべき脅威
である。(中略)
全体主義を見抜くことは容易ではない。全体主義は、俳優たち
が、それを自分たちで実現しているのに、それを自分たちでさ
えしばしば理解していない間に、動いているところの、或る装
置のごときものである。
この装置は、自立的な存在のように見え、魂のない、鬼神的な
或るもの(神話的に言えば)のように見える。この或るものは、
予感しないうちに陥るところの、またそれと同様に、半ば知り
かつ知らずにそういう或るものを自ら惹き起こすところの、
人々のすべてを支配するものである。
全体主義は、生けるものの血を飲み、それによって現実的とな
るところの幽霊のごときものであり、一方犠牲者は生ける屍の
集団としてその生存を続けるのである。
ヤスパース『真理・自由・平和』93頁、理想社
「全体主義との闘争において」、初出は1954年
昭和41年7月20日 第1刷
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■註
東郷茂徳さんの業績は、その歴史的価値と比べてどうも過小評
価されている。なぜなのだろう、と思っていたのだが、今回い
ろいろ読んでいると、その理由の一つに、嶋田繁太郎被告(元
海軍大臣)との法廷での対決があったらしいことを知った。
一言で言うと、嶋田被告が東郷被告の証言について「イカスミ
戦法」と強く非難したのである。
「イカスミ戦法」ときいても何のことかわからない人が多いだ
ろうから(ぼくも数ヶ月前まで知らなかった)、参考文献はこ
れも山ほどあるが、最低限の基礎事実を知るために、1冊の本
に登場願おう。
▼2008年に『25被告の表情』という本が復刊された(諏
訪書房)。讀賣新聞の記者が、東京裁判に臨んだA級戦犯25
人の法廷での様子を記した本で、昭和23年に出版されたが、
GHQによってすぐに発禁にされた。
その「跋」(清瀬一郎)には、本書の成り立ちとして「昨年十
月讀賣新聞の法廷記者、金口進君が、私に『二十五被告の口供
書を基礎として法廷の空気を描写して見たい』と告げ」たこと
が記されている。また、本文の特徴として「無論、被告供述の
総てを網羅しては居らぬが、特色は必ず捕えて居る」「無論、
素描の事であるから、細かい点や、線は省略してある、又此省
略が本書の値打である」とある。
まさにこの通り、本書は、25人それぞれに対する記者の印象
の記録として興味深い。どの文章も、直接に是非を断じないの
だが、それぞれの戦犯に対して記者がどういう思いを持ってい
たのが、行間から滲み出ている。当時を生きた記者たちの生活
感情が脈打っているのだ。
▼一人ずつ、そのクライマックスを紹介していくのが一番いい
のだが、ここでは合計3箇所を引用したい。まず、嶋田被告・
東郷被告の対決部分を、それぞれ両被告の章から。そして補足
資料として、東条英機被告の章から。適宜改行と▼。誤字等は
修正した。
この3箇所を読めば、嶋田・東郷の対決の概要もわかるし、茂
徳さんの鼻っ柱の強さもわかる。
▼まず、嶋田被告の章「単冠湾すでに出発」から。
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▼嶋田被告はその証言で、日本の対米開戦は徹頭徹尾自衛戦で
あったと主張し続けた、また対米最後通告の問題はすべてが外
務省の所管であることも強調したのである。
嶋田被告はゆったりと、なんのよどみもなく、自己の云わんと
したことを洗いざらいぶちまけた。晴れやかな顔付で被告席へ
帰った。
再度この法廷で公式に証言することはないであろうと思われた
嶋田被告が、はからずも十二月十九日の東郷被告証言により、
証人台に再登場することになったのである。
被告証人の再喚問は東京裁判開まって以来のことである。嶋田
証人はニュールンベルグで再喚問されたゲーリング元帥の前と
同様の二の舞を演じた。そのいきさつは次のことによる。
▼東郷被告はその証言で対米通告問題に関し外務省の所管であ
ると述べた嶋田証言に反発を加えた。すなはち
『真珠湾攻撃(奇襲)に関する限り海軍に責任がある』
と述べている、この証言をくつがえすため、ブラナン弁護人が
反対尋問を行った。
『山本熊一証人は十二月二日の連絡会議で海軍側は奇襲(すな
はち無通告)攻撃を主張したと述べたが誤りである。当日連絡
会議のあった事を余をはじめ全被告が誰れ一人知らないのであ
る。ただ東郷被告のみは知っていた』
との嶋田証言を引用して
問 法廷にいる被告中、その連絡会議に出たものは無く海軍か
ら主張が行われたことも知らぬと云っているではないか
と詰問的に質せば、東郷被告証人は
『その人達の記憶力を私は信用しない。なぜならばそのよい実
例として、昨年(昭和二十一年)五月に巣鴨拘置所で私が、東
條、嶋田、岡、武藤らに十二月五日の御前会議のことを聞いた
とき、全部がその会議を忘れていた、かかる重大な御前会議を
忘れるくらいであるから、彼らが自分に不利なことを忘れるの
は無理もない』
とはき捨てるように爆弾証言を行う、被告席の全被告の面持が
緊張して東郷被告を注視しているうちに東郷被告はさらに語調
を強くし証言を続ける。
『いま一つの例を私は云いたくないがこの場合であるから申し
上げる。昨年五月中旬昼食後のこの法廷で、嶋田が私に、永野
と三人で話したいことがあるとの申し出があった。
その際嶋田は私に「海軍が真珠湾奇襲攻撃を計画していたこと
は誰れにも云ってくれるな」との話しがあり、さらに「もし君
がそれをしゃべれば君の為にもならないだろう」との脅迫的な
言辞もつけ加えられた、私はこの時以外にも海軍側から籍口要
請を受けたことがある』
と法廷舞台裏で脅迫的行為がなされたとする暴露証言を行う。
日本の軍部と外交市ヶ谷法廷までも軍人被告と文官被告の日本
政府要人間のアツレキを彼ら被告はさらけ出したのである。
しかしこの裁判開始以来被告個人段階まで各被告はその発言を
封ぜられていたので表面に現れたなかったまでであった。
▼東郷証言の当の本人たる嶋田被告は、この間姿勢を正して正
面に静かな瞳を据えて微動だにもしない心にあるであろう動揺
を少しも表情に現わさない。わずかに苦笑を浮べて聞き入って
いた。
この東郷証言ののちブ弁護人から嶋田被告は東郷証言を否定す
るため再度証人台に立ちたいとの希望を有しているとの要請が
行われ「それは減刑のために行うものではない」旨をも付け加
えた、これに対し、ウ裁判長は許可を与えたのである。
昭和二十三年、市ヶ谷法廷で迎えた二度目の新春九日、嶋田被
告は異例の再証言をするため証人台に迎えられた。
かれはその口供書で東郷証言反駁を綴っている。すなはち
『永野総長と伊藤次長との間で無通告攻撃が行われることにな
ったが、東郷外相の説得で通告をすることに両名は同意したと
の陳述が開廷当初に検察側に東郷被告より提出されたことを聞
き
永野は余に対して「それは全然ウソだ、日本海軍に関する重大
事だ」と憤慨その件に関し我々両名が当時の連絡会議出席者た
る全被告に訊ねたが誰れも東郷の証言を認めるものはいなかっ
た、その後余と永野は法廷控室で東郷と対談し、『何故そのよ
うなことを云ったか』と質したことがあった、
その際の余らの言葉が脅迫的だと東郷はいっている。余のどん
な言葉が脅迫的であったか余は思い当らない永野も余も東郷に
対して何ら強制したことはなく、彼の発言を制肘する考えは少
しも無かった』
と脅迫的行為は何ら行われず、かえって東郷の陳述の矛盾を訊
ねただけであったことを述べている、嶋田個人弁論と同様、検
察側からロビンソン検事が尋問に立った。その尋問に嶋田被告
は
『余は永野から東郷の陳述を聞いたとき、海軍の名誉のために
激怒した。余は被告中の唯一人として知らぬことであり、東郷
の言の間違いであることに確信を持っている。
後刻余と永野と二人で東郷に会い、海軍の名誉のために彼の誤
った点を注意した、我々の態度は何ら脅迫的ではなかった、余
は彼に注意をしたのでまさかこの法廷であんなバカバカしいこ
とを述べるとは思わなかった。
彼はその心中に余程やましいカゲを持っていない限り、私のい
ったことを脅迫ととるはずがない、彼は外交的手腕を発揮して、
すなはち
苦境に立ったイカがスミを吹いて逃げるごとく、
東郷は非常に困った立場から逃げるべく、我々の言葉を脅迫と
表現しているものと感じている』
と嶋田被告は東郷証言をイカスミ戦法とキメつけたのち、ロ検
事からの尋問が続けられる。(中略)
嶋田被告は終始端然として、その陳述には少しも感情をまじえ
ず、淡々と海軍の伝統を守るためにのみ証言を行ったのである
ことを語り終れば、被告席の東郷被告もあらぬ方に無表情な瞳
をそそいで聞き入っていた。
322-328頁
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▼これには現在まで定着している「イカスミ戦法」という言葉
も出てくる。
続いて東郷被告の章「脅迫された外交官」から。
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▼東郷被告に対するキーナン検事の尋問は十九日、二十二日、
二十三日を続けられ二十四日にも終了に至らなかったが、クリ
スマス前日のこの日尋問途中で突然、キーナン検事が被告席を
ふり返り被告席の左から一人一人の顔を指さしつつ、
「この被告席のだれが開戦論を主張したのか、一人一人指示せ
よ」と語勢するどく異例の質問を行ったのであった。
東郷被告はしばらく間をおいて「東條、嶋田、鈴木の三人--」
としぼったような大声でいい切った。これに続いて次のような
質問が行われた。
問 武藤、岡はどうか
答 彼等は幹事で意見を述べる地位になかった。何をいったか
記憶せぬ
問 星野はどうか
答 武藤と同様だった
問 賀屋は他の連中と共に行動するのを承知したのではないか
答 間接的に賀屋は承知した
問 賀屋に続いて貴下もそうした気持になったのではないか
答 私もやむを得ずそういう考えになったのだ
さらにキーナン検事は十一月二十六日ハル・ノート接受後の状
況判断、その後の外交措置が真珠湾攻撃を事前に知って行われ
たか否かにつき追及したが、東郷被告はこれを否定、二十六日
午前十一時二十分尋問を打切ったのであった。最後にウエツブ
裁判長が刑事側を代表して発言した。
問 ハル・ノートの受諾を何故日本の自殺行為と考えたか
答 これを受諾すれば今まで日本のとった施策がすべて大陸に
おいては崩壊する。もし全中国から兵力警察力を引あげれば日
本の企業存続不能となり体外的には敗戦後の今日の日本と同然
の状況になる。これは東亜の大国としての日本の自殺だ。それ
故日本としては受諾できなかったのだ
問 陛下が御前会議出席者の意見一致をみずに降伏決定された
のは憲法違反ではないか
答 それは憲法上の問題でないと考える。慣習では常に輔弼者
の遊言の上で御裁可あるが事態急を要したので新内閣成立によ
る意見の一致をまたず御意見の一致をまたず御聖断を下された
のだと思う。
▼六日間証人台に坐り続けていた東郷被告は二十六日午後二時
半さすが疲労のかげを双頬に刻みつけながらホツと肩で息をす
るような恰好で被告席にもどった。かくて東郷被告個人弁論は
書証提出立証二日間を加え、前後八日間をもって終了したが、
彼が法廷に与えた影響は余にも大きく深刻であった。
「東郷の証言はバカバカしいにもほどがありすぎる。彼の心中
によほどやましいことがなければ私のいったことを脅迫ととる
はずがない。イカがスミを使って逃げるにひとしい」
と、一月九日証人台へ特例の再登壇をした嶋田被告が口をきわ
めて面罵せる――しかし嶋田被告証人は少しも感情をまじえぬ
態度で淡々とのべていた―― 一事を想起するまでもないこと
であろう。
375-378頁
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▼最後に、東條英機被告の章「太平洋戦争の縮図」から。
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▼「人類を破滅に導かんとせる者」の烙印を押して「文明の裁
き」を続ける市ヶ谷法廷に、昭和二十二年の年の瀬がおしせま
った。十二月下旬、各国のニュースカメラマンが連日カメラの
砲列をしいて、法廷にものものしい光景を描き出していた。
レンズの向くところ被告席中央、カーキー色の国民服に身を包
む戦犯第一号東條英機被告──今日は立つか明日は立つか、世
界の目、世界の耳は彼の一挙手一投足に敏感に震える。
二十五被告の中、二十三人までは自己弁護が終って、いま法廷
には、被告東郷元外相が証人台にある。異常な曝露証言を行っ
て、東郷対嶋田の深刻な対立をかもし出し重苦しい空気に沈ん
でいる。
じっと東郷を見つめ、唇の震える嶋田被告、ぐっと身体をネジ
まげて証言に聞き入る板垣被告聞いているのかいないのか、黙
然とした木戸被告、「奇怪な海軍の脅迫」は聞く者の耳朶をう
つ、然しカメラは動かない。待っているのだ──東條被告の証
人台に立つの機を。
▼東條被告はほがらかだ。口はほころびている。眼は和やかだ、
隣の岡被告と何かささやいて微笑んでいる。二年間の沈黙を破
って、彼の「開戦の立場」を全世界に解明せんとする東條口供
書が十二月二十日出来上ったのだ。邦文二百二十頁、十三万語、
文官犯の巨頭木戸被告の三百七十頁に及ぶ口供書に名実共に対
抗する。
過去一年有半にわたる公判中、東條被告は審理に最も熱心な一
人だった。「カミソリ東條」と云われたカミシモをぬぎすてた
今、裁判そのものに溶けこんでいる。折にふれ頭に浮ぶ数々を
たん念にメモした「東條メモ」は余りにも有名だ。何を書いて
いるのか誰も知らない。
法廷で克明に綴ったこのメモは数冊とも或は十数冊に上るとも
云われる。十数年間にわたって書きつづけ、東京裁判の貴重な
資料となった「木戸日記」とは恰好の対照だ。
このメモを縦横に駆使して、東條、ブルーエット、清瀬三者が
昭和二十二年四月以来、稿を改めること三度、清瀬博士が「こ
の口供書ほど血のにぢむような苦心をしたものはない」と洩ら
した東條口供書はついに成った。
太平洋戦争史の縮図とも云うべき、彼東條被告が、虚心坦懐に
開戦の心境を吐露する日がついに来たのだ。
昭和二十二年十二月二十六日午後二時半、ブルーエット弁護人
は「東條部門に入る」と宣言した。直ちに清瀬弁護人が冒頭陳
述を朗読する。(後略)
381-382頁
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──茂徳さんのこのときの発言についての書かれ方は、何冊か
関連書を読みましたが、ちょっと分が悪いですね。
東郷 海軍との論争は、重光外相のものをはじめとして、私が
今まで読んだどれを見ても、茂徳に好意的なものはありません
でした。
日本人の評価という意味では、この論争を法廷に持ち出したこ
とは、明らかにマイナスに働いたのでしょう。しかし、茂徳に
とっては、海軍側のやり方に我慢がならなかったのでしょう。
その怒りを表すことは、評価を得るよりももっと重要なことで
あり、周りの評価を求める心境ではなかったのでしょう。
──そうした強い個人主義を好まない日本的な全体主義の体質
は、過去と現在とでは、変わっていないと思いますが、いかが
でしょうか。
東郷 当時と現在で、あまり変わっていないし、今後の日本の
進路を決める、非常に大きな問題であると思います。
山本七平氏以来、私たちがなじんでいる言葉として「空気」と
いうのがあります。KY(「空気を読む」)と最近では言われ
る。周りがどういう方向で動いているかを察知して、それに合
わせることが、最善。他と違ったことを、はっきりと主張する
ことは、受け入れない。これが、国防・安保・政治・会社の中
の人間関係・ファッションに至るまでついて回る。
そういう中で、本当に独立した精神は何か。何者にも拘束され
ない見方を、自分の中で育てていくにはどうしたらよいか。そ
の思想を、日本という社会に向けて発信する時に、考慮に入れ
ないといけないのは、何なのか。
しかも、現代、思想の発信は、いやおうも無く、日本だけでは
なく、世界に対して行うこととなる。ぎりぎりの発信の中での
生き方を、仮に「実存」というならば、今、私たちに問われて
いる、本当の「実存的な生き方」とは何なのか。
(つづく)
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