【編集方針】

 
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2015年9月25日金曜日

性暴力の加害者と安倍談話、専門バカの暴走


【メディア草紙】1979 2015年9月25日(金)
■性暴力の加害者と安倍談話、専門バカの暴走■


▼「世界」10月号で読み応えがあったのは、社会学者の牧野雅子氏による〈「性暴力加害者の語り」と安倍談話〉。

牧野氏が〈これまで話を聞いた加害者たちは、懲役20年を超える刑を言い渡された犯罪者から、裁判進行中の被告人、被害者との示談が成立した者、刑事事件にはならなかったセクハラ、DV加害者等。立場や罪名は異なるが、全員が男性である。会って話を聞いたり、書面でインタビューを行った相手は40名ほどになる。また、100人を超える性暴力被害者と会い、話を聞いてもいる。〉

そして〈わたしがこれまでインタビューを行っていた性暴力加害者たちは、自分の加害性を引き受けられていない人たちである。反省が出来ていないと言ってもいいだろう。〉

この聞き取り経験の鏡に「安倍談話」を映すと、その特徴が鮮やかに描かれるという寸法だ。

▼安倍談話には、たとえば「終戦」ではなく「敗戦」と明示したり、誤った戦争へ進み始めた時点を「満州事変」と明示したり、おそらくは無意識の裡(うち)に、村山談話よりも明らかに踏み込んだ、驚くべき表現が紛れ込んでいる。
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

でも、それらはたぶん「不慮の事故」で、この談話全体に覆いかぶさっている「他人事(ひとごと)感」は、英語メディアが使っていた haifhearted (いい加減、中途半端、気乗りしない)という表現がピッタリだった。つまり、心ここにあらず。

牧野氏が指摘する性暴力加害者の特徴を、まず三つ紹介する。

〈わたしが話を聞いてきた性暴力加害者たちは、加害者という立場からも下りることが可能だと思っているようだ。一体いつになったら被害者に許してもらえるのか、いつまで過去を背負わなければならないのか、と不服そうに言う。公判廷では、「反省しています、一生かけて償います」そう言ったにもかかわらず、である。〉

〈彼らにとって謝罪は、被害者に対して行うものではないらしい。自身の加害行為を詫びることが目的なのではなく、謝っている姿を見せて評価を得るために謝るのである。それも、被害者にではなく、自分を評価してくれるであろう第三者に向けて。その最たるものが裁判である。〉

〈性暴力加害者たちの表現には一人称がほとんど登場しない。(中略)彼らの主語のない語りは威圧的である。一般論を振りかざし、社会や世間を後ろ盾に、抑圧的な文言を並べる。「ねばならない」が繰り返し用いられることも特徴的である。責任を回避しつつも、力を行使しようとする態度が、そこに見える。〉

たしかに安倍談話には「主語」がない。主語だけがない、と言ってもいいくらい、饒舌な言葉言葉言葉の林立の中に、「わたし」が欠けている。

▼安倍談話の具体的な言葉の使い方について言及した、とても興味深い箇所があった。特に印象深い箇所は【】。


――――――――――
〈彼ら(=性暴力加害者)の多くは、加害行為についての具体的な言及を避ける代わりに、被害者を「傷つけた」という言葉で、曖昧に加害行為を暗示する。「被害者を傷つけたことに間違いはありません」「女性を傷つけてしまったという過去があります」「彼女を傷つけたことから目をそらしてはならない」といった具合である。

彼らはなぜ、具体的な記述を避けて、性暴力加害行為を説明するのに「傷つけた」という言葉を使うのか。もちろん、傷つけたと言えば、自分が具体的に何をしたかを言わないですむからではある。加えて、被害者の心情や置かれた状況を理解しているような印象を与えることができること、加害者が傷つける意図はなかったと言えば、責任が軽減されるような言葉であることも一因だ。【傷ついた程度は被害者の置かれた状況に影響を受けることから、その人がたまたまナイーブな質ゆえに傷ついただけで、他の人が相手だったら傷つかなかったかもしれないと、相手の弱さを非難する気持ちも含まれている。】〉
――――――――――


加害者の側が発する「傷つけた」という言葉遣いが、さらに被害者を「傷つける」のだ。

▼また、「寄り添う」という言葉が引き起こす二次加害についての言及も鋭かった。

牧野氏の〈性暴力は、加害者ありきである。性暴力を抑止するためには、加害行為そのものにアプローチすることが必要だ。〉という指摘は、誰も否定できない、解決のためのイロハのイだ。

▼「加害を隠すことによる、さらなる加害」という安倍談話が抱えている構造的な問題は、朝日新聞9月7日付の〈加害資料、常設展示は3割 戦争伝える85施設の調査〉(浅倉拓也・広島敦史記者)という記事とも意識下でつながっているかもしれない。

〈朝日新聞は国立や都道府県立の歴史資料館、平和博物館など116施設にアンケートを実施し、102施設から回答を得た。このうち満州事変(1931年)以降の戦争資料を展示しているとした85施設を調べたところ、旧日本軍などによる戦時下の加害行為の常設展示は約3割の26施設にとどまっていた。〉

思うに、これって要するに「男」の問題なんじゃなかろうか。


▼安倍談話が発散する「他人事(ひとごと)感」については、同号で三谷太一郎氏が「第一に、客観主義的で、まるである種の教科書のように公式的に、戦争に至る歴史的経緯が論じられていること」「第二に、深い道徳感情(モラル・センチメント)がこもらない感傷的(センチメンタル)な叙述であることだ。それは歴史認識における主体性の欠如の反映だ」と指摘している。

三谷氏の論考の面白い点二つに触れておきたい。

一つは、安倍談話が未来の世代の謝罪を拒否した点について。具体的には〈あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません〉という箇所だ。

この箇所を一読して、ぼくは「なんで未来の世代の意思をあんたが勝手に決めるんだよ」と思ったが、三谷氏いわく〈これでは「謝罪」は意味をなさない。歴史に「限定相続」は許されない。それが「歴史の厳しさ」だ。それを学ぶのが歴史を学ぶということだ。〉まったくその通りだ。

もう一つは、「専門家支配」の危険について。〈かつてオルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』(1930年)において、

「一つのことに知識があり、他のすべてのことには基本的に無知である人間」、

すなわち大衆化した専門家の野蛮性を厳しく排撃した。専門家が自己限定の自覚を欠いたとき、専門家支配は暴走する。私たちがつい先ごろ目の当たりにした東日本大震災における東京電力福島第一原発の事故は、まさに専門家支配がもたらした破綻の極致であったのではなかろうか。歴史を遡れば、1930年代から敗戦までのいわゆる軍部支配は、軍事の専門家による専門家支配の一形態であったといえる。〉

▼この「軍事の専門家支配」について、現状を抉(えぐ)る重い論考が、纐纈厚氏による〈自衛隊の軍事作戦計画 統幕の内部文書は何を意味しているのか〉だ。

また、加藤陽子・半藤一利両氏による対談「歴史のリアリズム――談話・憲法・戦後70年」でも、加藤氏が歴史家ならではの角度から見事に切り込んでいる。いわく、


――――――――――
〈戦後の1949年、経済安定本部が、太平洋戦争による日本の国富の被害総額は敗戦当時の価格で653億円だったと発表しました。ところが、戦費として国が国民の郵便貯金などから強制的に徴収した公債残高だけでも敗戦時に1408億円、そして政府保証の民間債務が960億円、合計で2368億円あった。つまり、政府は国民にそれだけの借金をし続けて、ようやく戦争を継続していたのです。

ところが1934-36年の卸売物価指数を100とすると、49年の指数は2万2000。つまり国民は、夫や兄弟や父を戦場で殺され、空襲でも殺され、他国民も殺し、そのうえ2368億円をパーにされたのに、インフレによってそのパーにされた気持が飛んでしまったのです。

戦費がどれくらいか国民が知らなかった背景には、1937年の日中戦争勃発以降、45年まで、国会(帝国議会)が軍事予算についての報告を受けることができず、したがって国会で予算の質疑もできなかったことがあります。今後、万が一、小さな紛争などを契機に「軍事予算」的なものが特別会計枠のような仕組みで審議されにくくなっても、私たちは気づかないのではないか。これは本当にこわいことです。〉
――――――――――


▼半藤氏も、ニッポンの安全保障政策の激変について

〈今年の4月27日にニューヨークで、日本の外相と防衛相、米国の国務長官と国防長官による2+2の会議が開かれ、日米安保条約の前文と六条で「極東における国際の平和と安全の維持のために」兵力を使う旨明記されているところが、大きく広げて「アジア太平洋地域およびこれを越えた地域の安定と平和と繁栄した情勢を維持するために」軍隊を出すと変えられた。

このことを、たった四人で決めてしまったわけです〉と勘所を押さえたうえで、「B級昭和史」の連載を通して得た実感を〈当分の間は大丈夫という楽観性と排他的同調性、この二つが日本人のある特徴であり、現代、そしてこれからの日本人にも同様のことが言えるのではないかと思っています〉

と語り、ニッポン人の悪いクセを炙りだしている。

この「排他的同調性」は、朝日9月24日付に載っていた緒方貞子氏インタビューの、難民受け入れをめぐる「私が弁務官(=国連難民高等弁務官)をしているころは、いろんなことをしてあげようという気持ちは(日本側に)今よりあった。今はかなり自信たっぷりの国になったと感じますね。思いやりが減ったんですよ」という論評と通底している。

緒方氏は1991年から2000年まで弁務官を務めた。だから、緒方氏の眼には、この20年前後でずいぶんとニッポンのお国柄が変わったと映っている。また、このインタビューで緒方氏は「日本の法務官は、(人道的ではなく)厳しい法律的な視点で(認定審査を)する」と批判しており、これもまた専門バカ批判の一典型だろう。

▼本誌1975号(2015年9月19日)で取り上げた、パブコメの軽視や、通信傍受=盗聴ホーダイや、経団連の「死の商人」化なども、「大衆化した専門バカ」の暴走、という括(くく)りで考えたほうが価値的なのかもしれない。

そもそもこれって昔からある問題なのだが、このところ、たくさんの分野で、同時に「専門バカの暴走」が勃発しているような気もする。なんでだろう。

デジタル版で読める緒方氏のコメントが、痛烈だ。

「テクノロジーを中心とした情報の繁栄のなかで、どうやって本当の知識、そういうことに基づいた政治をし、哲学をつくっていくか、ということなのじゃないでしょうか。そういう力が逆に減ってきていると思う。あんまり早く知識がまわりすぎちゃうから。消化しなくても知っちゃうんですよね。だけどそれが知識というものになっていくかというと……。そういうことを調べている学者がいるんじゃないの。今、哲学者って何をしてるの?」

うーむ。ということは、インターネットやメールを使うのをやめたら「本当の知識」が身につくかも。あ、その場合、本誌はプリントアウトしてお読みください(呵々)。


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竹山綴労


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